編集用(キャラ)
タグ一覧
>最終更新日時:
画像 | ページ名 | レアリティ | 特技【発動率】 | 内政能力 | 勢力 | 最大Lv. | 詳細 | 詳細詳細 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
[先駆]周瑜【SP】 | SP | 孫武の疾風陣【40%】 | 銭 | 呉 | 1 | 字は公瑾、揚州廬江郡の人。美周朗と称される。王佐の才能を備え、優れた文武の能力を示して赤壁の戦いでは呉に大勝をもたらした。孫策と同い年の幼馴染で親交を深める間柄であり、孫策の旗揚げに応じて江東の支配後に自らの軍を率いて参陣しその下に従った。 | ||
[先駆]関姫【SP】 | SP | 武神姫の檄【40%】 | 兵糧 | 蜀 | 1 | 関羽の三番目の娘。民間伝承より発祥したと考えられるおそらくは架空の人物。関銀屏・関三小姐とも呼ばれる。生まれながら容姿は美しく聡明で武芸にも長けていた。呉が関羽に対して孫権の息子との婚姻を求めたが、関羽は一言のもとに断っている。 | ||
[先駆]孫尚香【SP】 | SP | 弓腰姫の指揮【40%】 | 銭 | 呉 | 1 | 劉備の妻となる孫堅の娘で孫策・孫権の妹。孫尚香は京劇で使われる名前で、三国志演義では孫仁。正史では孫夫人と記されている。実在の人物ではあるが、正史において彼女に関する記述は非常に少なく、呉の人物でありながら呉書には一切の記録がない。 | ||
[先駆]貂蝉【SP】 | SP | 美女連環の計【64%】 | アイテム | 漢 | 1 | 『三国志演義』に登場する絶世の美女。楊貴妃と並び、古代中国四大美人の一人に数えられている。その美貌と機転で董卓と呂布を仲違いさせて、呂布に董卓を殺させた美女連環の計はあまりにも有名。モデルとなった侍女の記述が正史に残っている。 | ||
[先駆]趙雲【SP】 | SP | 神速の槍術【40%】 | 兵糧 | 蜀 | 1 | もとは袁紹・公孫瓚に仕えるが、劉備が袁紹を頼った際に劉備に仕官した。劉備のもとで関羽・張飛に次ぐ猛将として五虎将の一角となり益州平定・漢中争奪戦などで獅子奮迅の活躍をする。その後の蜀の南征でも諸葛亮を助けて奮戦を続けた。 | ||
[先駆]夏侯惇【SP】 | SP | 魏軍の猛将【64%】 | 防衛 | 魏 | 1 | 曹操の腹心として挙兵時から行動を共にした曹操四天王の筆頭。呂布討伐戦で左目に流れ矢があたり隻眼となる。このことから、同族の夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。本人はそれを後々も気にしており、鏡で自分の顔を見るたびに憤激しこれを割ったという。 | ||
張飛【R】 | R | 猛将の指揮【60-80%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 燕人の異名を持つ。劉備、関羽を兄と仰ぐ義兄弟の末弟。武勇では関羽をも上回るとされた豪傑であり戦場では圧倒的な存在だった。長坂の仁王立ちを始め、特に小説『三国志演義』では豪傑たちと数々の名勝負を演じている。 | ||
董卓【SR】 | SR | 童卓の暴政【30-20%】 | 兵糧|銭|銭|銭 | 漢 | 40 | 群雄割拠の時代を招いた梟雄。辺境の将軍の一人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じ政治の実権を握って献帝を擁立、宮廷の権勢をほしいままにしている。 | ||
孫策【R】 | R | 猛虎の一撃【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 孫堅の長子。弟は呉の初代皇帝・孫権。容姿に優れ、人との会話を好む闊達な性格であったとされる。雌伏の時代に豊富な人材を集めた。少年の頃に同い年の周瑜と知り合って後に断金の交わりと呼ばれることになる固い友情を交わした。二人の死までその友情は続いたという。 | ||
郭嘉【R】 | R | 縮地攻勢【30-80%】 | 銭|防衛 | 魏 | 30 | 曹操に仕え、その覇業を助けた軍師。腹心の軍師・戯志才の後継を探す中、郭嘉に会った曹操は我が大業を完成させてくれるのは間違いなく郭嘉の他にないと言い。郭嘉も曹公こそ我が主君であると言って喜んだという。 | ||
張昭【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 呉 | 30 | 呉の孫策、孫権に仕えた。朝廷からの仕官の誘いを断っていたが中原の動乱が広がると江南に移住し、孫策の招聘を受けて仕えるようになる。小説『三国志演義』ではこの時に張紘を推挙したこととなっている。孫策は彼らに厚い信頼を寄せ、軍事から内政まで諸事を任せた。 | ||
丁夫人【R】 | R | はっきり言うけど【50%】 | 銭|銭 | 魏 | 30 | 曹操の二度目の正室。曹操の正室・劉夫人が亡くなった後に迎えられた。子供に恵まれなかったため、わが子でない曹昴を深く愛し育てたという。宛で窮地に陥った曹操を逃がす代わりに曹昴が戦死した時、丁夫人は曹操をなじり最後まで曹操の詫びを受け入れず、自ら離別した。 | ||
孫権【R】 | R | 江東の守護者【30-80%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 30 | 曹操の南征時には諸将が帰順を進める中、徹底抗戦の道を選んで劉備と同盟を結び、周瑜の作戦のもと赤壁の戦いで曹操軍を打ち破った。その後、益州で劉備が勢力を伸ばすと一転曹操に恭順している。外交力に長けておりよく三国の均衡を保ったといえる。 | ||
曹仁【R】 | R | 強靭の構え【30-60%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操の旗揚げより傍らに寄り添って各地を歴戦、守りに強くねばり強い戦いぶりを見せた。諸将から将軍は天上世界のお方と言われたほどであり、曹操は彼を信頼して常に側におき、後の曹丕も弟の曹彰に曹仁将軍のようになれと言ったという。 | ||
張紘【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | アイテム|兵糧|銭 | 呉 | 30 | 孫策、孫権に仕えた重巨。孫策はこの張紘と張昭と重用し、どちらかが軍に随行するときは必ずもう一人が留守を守ったという。曹操のもとに使者として送られた時には曹操にも気に入られるが、引きとめようとする曹操の企みをうまくとりなして無事呉に帰還している。 | ||
許褚【R】 | R | 不動の覚悟【60-80%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操の旗揚げに軍勢を引き連れて帰服した武将。以降その巨体と怪力を生かして曹操の警護役を長く務めた。曹操が亡くなると許褚は号泣して血を吐いたという。その見かけによらず許褚の性格は慎み深く誠実かつ重厚で無口であったという。 | ||
関姫【R】 | R | 武神姫の檄【30-80%】 | 兵糧 | 蜀 | 30 | 関羽の三番目の娘。民間伝承より発祥したと考えられるおそらくは架空の人物。関銀屏・関三小姐とも呼ばれる。生まれながら容姿は美しく聡明で武芸にも長けていた。呉が関羽に対して孫権の息子との婚姻を求めたが、関羽は一言のもとに断わっている。 | ||
黄忠【R】 | R | 老将は死なず【30-40%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 劉備に仕えた武将。定軍山の戦いで魏を相手に大勝利をおさめ夏侯淵を討ち取っている。この戦いで曹操は漢中の足がかりを失い劉備は漢中を平定し漢中王になる事となった。この功績で黄忠は征西将軍に昇進、翌年には後将軍になった。 | ||
呉夫人【R】 | R | 東呉の賢妻【40-50%】 | 銭|銭 | 呉 | 30 | 揚州呉郡呉県の人、孫堅の正室。孫策・孫権らの生母で孫家の覇業を助け、呉の建国を影から支え続けた賢夫人。才色兼備の噂を聞きつけた孫堅に求婚される。彼女の親戚には猛反対を受けるが。孫堅の恨みを察した彼女は禍根を残さないために孫堅の求婚を承諾した。 | ||
趙雲【R】 | R | 神速の槍術【30-80%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | もとは袁紹・公孫瓚に仕えるが、劉備が袁紹を頼った際に劉備に仕官した。劉備のもとで関羽・張飛に次ぐ猛将として五虎将の一角となり益州平定・漢中争奪戦などで獅子奮迅の活躍をする。その後の蜀の南征でも諸葛亮を助けて奮戦を続けた。 | ||
魏延【R】 | R | かかって来い!【60-80%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 劉備配下の猛将。小説『三国志演義』では勇猛ではあるが思慮が足りず性格に難の有る人物として描かれている。五丈原の戦いで病に倒れた孔明の延命の祈祷を知らされず、祭壇に踏み込んで祈祷を失敗させた逸話がことに有名である。 | ||
夏侯淵【C】 | C | 修練の弓術【20-30%】 | なし | 魏 | 10 | 字は妙才。兄に夏侯惇、子に夏侯覇らがいる。正妻は曹操の妻の妹だった。曹操がある事件で投獄された時にその身代わりを引き受けたことで知られる。その後、曹操に救出されて刑罰は免れることができた。その縁から曹操が挙兵すると兵を引き連れて随行し、以降は曹操と行動を共にしている。 | ||
荀攸【C】 | C | 水計【20-30%】 | 兵糧 | 魏 | 10 | 字は公達。荀彧のおいにあたる人物で曹操に仕えた軍師の一人、後に筆頭軍師となる。まず大将軍・何進に仕えるが董卓暗殺計画に加担したことで投獄されている。董卓が横死した後に救い出されると曹操が荀彧から荀攸の評判を聞き、書状を送り荀攸を召しだした。 | ||
諸葛亮【SR】 | SR | 領地経営【80-100%】 | アイテム|兵糧|兵糧|銭 | 蜀 | 40 | 劉備に見いだされる前は、戦乱を避け湖北の襄陽近くで晴耕雨読の生活を送っていた。西暦207年。劉表を頼って当地にきた劉備に仕える。この時、劉備は諸葛亮の評判を聞き自軍に招こうと三度にわたって自ら諸葛亮の草庵を訪れたという。 | ||
桃園の誓い【SSR】 | SSR | 桃園結義【100%】 | 兵糧|銭|アイテム | 蜀 | 99 | 桃園の誓いは劉備・関羽・張飛の3人が桃園で義兄弟の契りを交わすという逸話です。黄巾軍討伐の義兵募集を見てお互いに意気投合した劉備達3人は張飛の屋敷の裏にあった桃園で義兄弟の誓いを交わし、酒に興じました。彼らは約5百の手勢を率いて幽州太守・劉焉のもとに馳せ参じることとなります。 | ||
盧植【SR】 | SR | 名将の慧眼【100%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 40 | 黄巾の乱の後、董卓が中央の実権を握り専横を振るい始めた。董卓は弁帝から献帝への移動を提案。盧植はこれに強硬に反対した。董卓は怒り盧植を処刑しようとするが蔡邕らの嘆願により助命される。その後、高齢である事を理由に隠居した。 | ||
曹洪【C】 | C | お宝の匂い【20-30%】 | なし | 魏 | 10 | 字は子廉、豫州沛国譙県の人。曹操のいとこにあたる。曹操が反董卓の義兵を起こすとその挙兵に従って同族の曹仁と共に配下に加わった。防戦に強く、官渡の戦いでは自陣の防備で活躍している。劉備が漢中に襲来したときには張飛・馬超らの攻撃をよく防いで下弁を最後まで守り抜いた。 | ||
曹操【SSR】 | SSR | 魏武の号令【100%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|銭 | 魏 | 50 | 黄巾の乱を期に中原を分かつ群雄となった曹操は順調に勢力を拡大する。官渡の戦いにおいて袁紹一派を破り、荊州の劉表のあとを継いだ劉琮を降伏させると中原を含む中華のほぼ半分を手中にした。しかし同年、孫権・劉備の連合軍に赤壁の戦いで大敗することとなる。 | ||
周瑜【SSR】 | SSR | 美周郎【100%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|銭 | 呉 | 50 | 孫策・孫権に仕えた武将。小説『三国志演義』では美男、智勇に優れた青年提督として描写され活躍もしているのだが、結果的に諸葛亮には敵わない引き立て役の役回りとなっている。難題を突き付け諸葛亮を殺そうとしたり、魯粛をいじめたりと狭量な面が強調されていた。 | ||
周瑜【R】 | R | 孫武の疾風陣【30-80%】 | 兵糧|銭 | 呉 | 30 | 字は公瑾、揚州廬江郡の人。美周朗と称される。王佐の才能を備え、優れた文武の能力を示して赤壁の戦いでは呉に大勝をもたらした。孫策と同い年の幼馴染で親交を深める間柄であり、孫策の旗揚げに応じて江東の支配後に自らの軍を率いて参陣しその下に従った。 | ||
黄蓋【C】 | C | 裂帛の意気【30-40%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字を公覆、荊州零陵郡の人。孫堅・孫策・孫権の三代にわたって仕えた宿将である。黄巾の乱から孫堅に付き従い数々の戦場で戦功を立てている。その人となりは威厳があり職務に忠実で兵を良くねぎらったといい、法令に厳格ではあるが弱きを助ける統治を行ったため人々に大変に慕われた。 | ||
張曼成【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 黄巾の乱を起こした張角に呼応し、南陽黄巾軍を率いて戦った幹部の一人。西暦184年に張角腹心の馬元義が漢軍に捕らえられ処刑されると、張角の黄巾軍と呼応して南陽で太平道信徒を集めて挙兵した。南陽太守・褚貢を攻め滅ぼし宛県城を拠点としている。 | ||
張紘【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 10 | 字は子綱、揚州広陵郡の人。孫策・孫権に仕えた。戦乱を避けて江東に移住した後も中央の大将軍や高官からの仕官の誘いをすべて断り、挙兵した孫策に仕えて参謀となって活躍した。若くしてその優れた学識から張昭と共に江東の二張と称されていた。 | ||
程普【C】 | C | 先取攻勢【20-30%】 | 防衛 | 呉 | 10 | 字は徳謀、幽州北平郡の人。孫家三代に仕え呉の礎を築いた宿老。黄巾の乱の頃より孫堅に従軍し城攻めや野戦では必ず先陣を切るため体のあちこちに傷を負っていたという。孫堅の死後は孫策の旗揚げに尽力した。孫権の下でも赤壁の戦いに参加し曹仁を敗走させている。 | ||
関羽【R】 | R | 轟く武名【30-80%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 字は雲長、司隷・河東群解の人。後に蜀の創始者となる劉備に仕えた武将。小説『三国志演義』では劉備・張飛とともに桃園の誓いを結び、義兄弟となっている。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人となりは敵の曹操や多くの同時代人からも賞賛されている | ||
簡雍【C】 | C | 荒天予測【50%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 字は憲和、幽州涿郡の人。劉備に仕えた文官。劉備とは同郷の出身で旧知の仲であった。早い時期から劉備に伴って各地を転々としている。簡雍は才気にあふれていたが規律を気にせず無頓着で、その大らかな性格は劉備と気が合ったという。 | ||
張飛【C】 | C | 猛将の統率【40-60%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 字は益徳、涿郡の人。小説『三国志演義』では劉備・関羽と共に桃園の誓いを結び義兄弟となり、三人兄弟の末弟となった。劉備の拳兵に当初から付き従った人物で、その人並みはずれた武勇は一人で一万人の兵に匹敵するとさえ言われた。 | ||
劉備【C】 | C | 義旗への結集【20-30%】 | 兵糧 | 蜀 | 10 | 字は玄徳、涿郡涿県の人。前漢景帝の第八子中山靖王の末裔と言われる。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後も各地を転戦する。軍師・諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て、後漢の滅亡を受け皇帝に即位。蜀漢を建国した。 | ||
趙雲【C】 | C | 機先の槍術【20-30%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 字は子龍。冀州常山郡真定県の人。身長は八尺で姿が際立っていたという。長年にわたり劉備に仕えその後も蜀に尽くした忠義の将。小説『三国志演義』では長坂の戦いで阿斗、後の劉禅を懐に抱いて単騎駆けで曹操軍を突破した逸話で知られている。 | ||
麋竺【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | アイテム|兵糧 | 蜀 | 10 | 字は子仲。徐州東海郡朐県の人。妹に劉備の麋夫人。弟に麋芳。劉備に仕えた。裕福な家柄の出身で徐州時代から劉備を助けている。後に曹操に評価され麋竺に位をつけようとするが、麋竺はこれを断り劉備の流浪に付き従って転々としている。 | ||
陳珪【C】 | C | 街道の整備【40-50%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は漢瑜。豫州沛郡の出身とされている。袁紹と呂布を手玉にとった老獪な策士で、劉備が呂布に徐州を奪われた際に呂布打倒を画策している。呂布と袁紹が結託しようとした所を陳珪は巧みにその害を説いて破談にしてしまった。 | ||
盧植【C】 | C | 奇襲の察知【50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は子幹、涿郡涿県の人。身長が高く声は鐘のようによく響いたという。後漢の末期に文武の才能を見込まれて立身した。黄巾の乱の追討に功績を挙げた将軍の一人として知られ、儒学者としても名を残した。三国時代の蜀漢を興した劉備の師でもある。 | ||
魏延【C】 | C | 俺に敵はない!【40-60%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 字は文長、荊州義陽群の人。蜀の武将。劉備の荊州時代に配下となる。非常に勇猛で誇り高い武将でりゅう日には高く評価され、後に彼を漢中太守に任命している。劉備の死後も蜀に仕え北伐では蜀軍の主力として活躍している。 | ||
公孫瓚【C】 | C | 白馬義従【20-30%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は伯圭、幽州遼西郡令支県の人。後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し後に群雄として幽州・遼東に割拠した。河北の支配権をめぐって袁紹と争うが大司馬を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。 | ||
黄忠【C】 | C | 老将の意地【20-30%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 字は漢升、荊州南陽郡の人。はじめは劉表に仕えていたが、劉備の荊州平定後に劉備に仕えた。益州や漢中の攻略等で活躍した義に厚い壮士との評が残る。七十を超えても弓馬を駆ったとされ、現代でも老いてますます盛んな老人のことを老黄忠と呼ぶ。 | ||
周倉【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 蜀 | 10 | 字は元福、涼州の出身とされている蜀の武将。関羽の側近としてあまりにも有名なため、実在の人物ではないにもかかわらず墓が建立されており実存する。関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られており、現代でも信仰の対象となっている。 | ||
張宝【C】 | C | 鉄門峡の狂風【20-30%】 | 防衛 | 他 | 10 | 字は不詳、冀州鉅鹿の人。後漢末期に黄巾の乱を起こした指導者・張角の次弟。兄の張角や弟の張梁と共に黄巾党を率いて挙兵し、皇甫嵩・朱儁らが率いる官軍と戦った。三国志演義では突風や雷を起こす妖術使いとして登場し、鉄門峡で劉備の義勇軍と対峙した。 | ||
程遠志【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。黄巾賊の将で5万の黄巾兵を率いて幽州を襲撃し、大興山の麓で劉備率いる義勇軍と合戦になる。副将・鄧茂が張飛に突き殺されたのを見て彼に斬りかかるが割って入った関羽に一瞬で両断されてしまった。 | ||
裴元紹【C】 | C | 特技なし | 銭 | 他 | 10 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。もとは黄巾族の棟梁、張角の部下という設定であるが、紅巾の乱の終結の後に周倉とともに落ち延び山賊まがいの生活を送っている。関羽の知己を得て周倉とともども義勇軍の配下に加えてくれと懇願するが... | ||
馬元義【C】 | C | 特技なし | 銭 | 他 | 10 | 字は不詳、太平道の大帥の一人。太平道の教祖・張角の腹心。打倒漢王朝を掲げて太平道信徒とともに一斉蜂起する張角の計画に先立ち、朝廷の宦官・十常侍を抱き込み密謀を図るという重要な役割を担って洛陽に潜入した。 | ||
孫尚香【R】 | R | 弓腰姫の指揮【30-80%】 | 銭 | 呉 | 30 | 劉備の妻となる孫堅の娘で孫策・孫権の妹。孫尚香は京劇で使われる名前で、三国志演義では孫仁。正史では孫夫人と記されている。実在の人物ではあるが、正史において彼女に関する記述は非常に少なく、呉の人物でありながら呉書には一切の記録がない。 | ||
霊帝【C】 | C | 官職売るよ!【20-30%】 | 銭 | 漢 | 10 | 後漢第十二代皇帝で本名は劉宏。西暦163年に13歳で皇帝に擁立される。しかし全く人の上に立つ者らしいことはせず、政治はほとんど当時政治を独占していた宦官に委ねていたという。そのため後漢末期の地方の反乱はますます活発になった | ||
曹操【R】 | R | 逆族討伐令【30-80%】 | 兵糧|銭 | 魏 | 30 | 字は孟徳、沛国譙県の人。父は曹嵩で夏候氏と同族とされている。詩人でもあり兵法家としても業績を残した。後漢の丞相・魏王となり、三国時代・魏の礎を作った乱世の英雄。廟号(びょうごう)は太祖、諡号(しごう)は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武帝とも呼ばれている。 | ||
于禁【C】 | C | 奇襲の察知【50%】 | 魏 | 10 | 字は文則、兗州泰山郡鉅平県の出身。曹操に仕えた武将。張遼・楽進・張郃・徐晃と共に魏の五将軍の一人とうたわれている。黄巾の乱に際して鮑信配下の義兵として参加し、鮑信の死後は王朗の推挙により曹操に仕えて無数の軍功を立てている。 | |||
何進【C】 | C | 特技なし | 銭 | 漢 | 10 | 字は遂高、南陽宛の人。霊帝の皇后で何皇后の兄。元は南陽の屠殺行であったとされる。異母妹の何氏が霊帝の宮中に入り貴人となったため取り立てられて皇帝付きの武官となる。やがて黄巾の乱が勃発すると大抜擢を受けて大将軍となった。 | ||
楽進【C】 | C | 豪槍の構え【40-60%】 | なし | 魏 | 10 | 字は文謙、兗州陽平郡衛国の人。董卓に反抗し挙兵した曹操の下へ唯の一兵卒として馳せ参じた。最初は文書の記録係だったが曹操が試みに故郷で兵を集めさせたところ千人もの兵士を連れて戻ってきたためそれを機に曹操軍の武将となった。後に叩き上げから魏の右将軍まで登りつめることになる。 | ||
曹休【C】 | C | 虎豹騎の統率【20-30%】 | なし | 魏 | 10 | 字は文烈、曹操のおいにあたる。戦乱を避け疎開していたが、曹操の挙兵を聞くと変名を使って故郷に戻り曹操の元に馳せ参じた。曹操は喜び側近たちに向かってこの子は我が家の千里の駒であると曹休を褒め、そばに置き子の曹丕らと一緒に可愛がり育てたという。 | ||
曹純【C】 | C | 苛烈な統率【30-40%】 | なし | 魏 | 10 | 字は子和、沛国譙県の人。曹操のいとこにあたる。父の曹熾が39歳で亡くなりわずか14歳で家督を継ぎ、20歳のときに曹操に仕えその後も付き従う。議郎・司空軍事を歴任し、のちに曹操の精鋭騎兵部隊・虎豹騎を預かることになる。 | ||
曹仁【C】 | C | 頑強の構え【20-30%】 | なし | 魏 | 10 | 字は子孝、豫州沛国譙県の出身。曹操のいとこで曹純は兄。魏の最古参武将の一人として各地を転戦し、数多くの戦功を残した。伝では曹仁の武勇はあの張遼をも凌ぐとされている。晩年は大将軍・大司馬にまで昇っている。 | ||
陳宮【C】 | C | 謀士の看破【50%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は公台、兗州東郡武陽県の人。はじめは曹操に仕えるが後に裏切り呂布に仕えてそれに殉じた。曹操はもう一度自分へ仕えるよう説得したが陳宮はそれを断り刑に処されている。陳宮の死後、曹操は陳宮の家族を引き取って世話をした。 | ||
荀攸【R】 | R | 水攻の計【40-60%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 30 | 曹操の筆頭軍師。叔父の荀彧は戦略を担当し、荀攸は軍事戦術面を担当する立場であった。呂布討伐戦より従軍し、数々の戦いで策を授け曹操に勝利をもたらしている。それでいて分をわきまえ目立つことなく慎ましく生きた。郭嘉の死の後、曹操は特に荀攸を信頼したという。 | ||
車胄【C】 | C | 劉備抹殺指令【20-40%】 | なし | 魏 | 10 | 曹操配下の文官。劉備が曹操を裏切り、袂を分かった当時の徐州太守だった。曹操が袁術を滅ぼした後、劉備は曹操に反旗を翻して独立しようとした。曹操は当初楽観していたが劉備が徐州を急襲する。車胄は殺害され、徐州は劉備に奪われることになった。 | ||
李典【C】 | C | 荒天予測【50%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 字は曼成、山陽郡鉅野県の出身。曹操に仕えた武将。謙虚な人物で知られ儒学もたしなみ功を焦ることもなかったため魏の将軍たちからも広く信頼されていた。劉備が侵攻してきた時には夏侯惇の配下として戦い、夏侯惇の窮地を救っている。 | ||
何儀【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 黄巾党の頭目の一人。張角の挙兵による黄巾の乱に武将として参加していた。乱が鎮圧された後も同じく黄巾党頭目である劉辟・黄邵・何曼らと共に汝南・潁川で数万の軍勢を擁していた。討伐に来た曹操軍に夜襲をしかけた際に于禁の逆襲を受ける。 | ||
張梁【C】 | C | 黄巾の大集結【20-30%】 | 兵糧 | 他 | 10 | 字は不詳、冀州鉅鹿の人。後漢末期に黄巾の乱を起こした指導者・張角の末弟。兄の張角らと共に黄巾党を率いて挙兵、後漢王朝の将軍・皇甫嵩と朱儁らが率いる官軍と戦った。決起後は張角から人公将軍の号を賜り兄たちを補佐している。 | ||
波才【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 字は不詳、潁川郡黄巾党の頭目の一人。西暦184年、張角が挙兵して黄巾の乱をおこした際に南陽の張曼成らと呼応して潁川で挙兵、黄巾軍に加わった。緒戦で朱儁率いる官軍を破っている。後漢書にのみ登場し正史、三国志演義ともに登場しない。 | ||
張角【R】 | R | 黄巾の乱【30-80%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 字は不詳、冀州鉅鹿の人。生家は位が低く張宝・張梁兄弟と共に貧しい前半生を送った。後に太平道の教祖となり農民反乱である黄巾の乱を起こすことになる。この乱は後漢王朝の衰退を招いて戦乱の時代、後の三国時代を迎える一つの契機となった。 | ||
鄧茂【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。幽州の黄巾賊・程遠志配下の黄巾賊の頭目の1人で義勇軍を結成した劉備の最初の相手として登場する。しかし劉備の義兄弟の末弟・張飛には全く歯が立たず張飛愛用の武器・蛇矛で突き殺されてしまった。 | ||
華雄【C】 | C | 鬼将軍の統率【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 後漢末期、董卓配下の武将。反董卓連合軍・孫堅との戦いに参加した。正史では、陽人の戦いで胡軫が呂布に謀られ、軍を撃破され孫堅の追撃を受けた。胡軫は追撃から逃れることができたが、この時代わりに追撃を受けて戦死している。 | ||
李儒【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 後漢末の人物。董卓が入朝した頃に官界にあり郎中令だった。正史には董卓に廃された劉弁に毒薬を飲ませて殺害したと記されている。董卓が滅亡した後に献帝から弑逆の罪によって粛清されかかり、李傕の取り成しを得て生き延びている。 | ||
李傕【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 漢 | 10 | 字は稚然、涼州の人。董卓配下の武将。董卓の死後にその権勢を奪うべく長安を強襲して呂布を破り王允・黄琬らを粛清し、献帝を擁立して権力を握った。しかし不遜で不誠実な扱いを繰り返し献帝に逃げられると次第に勢力は衰退していく。 | ||
董卓【R】 | R | 童卓の専横【40%-30%】 | 兵糧|銭|銭 | 漢 | 30 | 字は仲穎、涼州隴西郡臨洮の人。事実上後漢王朝を滅ぼし、群雄割拠の時代を招いた梟雄(きょうゆう)とされる。後漢王朝の混乱に乗じて中央に進出し少帝弁を廃し献帝を擁立、権勢を奮うが養子にした呂布に謀略により誅殺された。 | ||
徐栄【R】 | R | 不意の敵襲【40-60%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期、董卓配下の武将。三国志演義では董卓の長安遷都の際に追撃してきた曹操軍が、李儒の策による呂布の伏兵をくらって敗走したところを追撃。曹操の肩に矢を当てるところまで追い込んだが救援に来た夏侯惇と戦って討ち取られた。 | ||
徐栄【C】 | C | 敵軍強襲【20-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 幽州玄菟郡の人。後漢末期、董卓配下の武将。反董卓連合を相手にして最も善戦して戦果を残した董卓の武将と言える。正史では董卓が謀殺された後に王允に従った。その後、長安に攻め上ってきた李傕らの軍を迎撃、敗れて戦死している。 | ||
董白【C】 | C | 純真なる瞳【30-40%】 | 銭 | 漢 | 10 | 『文字が出来て以来これほど酷い人間はいなかった』とまで記された董卓の孫娘。父と母の名は残っていない。権力を欲しいままにし暴虐と贅の限りを尽くした祖父、その愛を一身に受けて、この世で考えうるすべての物を与えられて育ったという。 | ||
張繍【C】 | C | 危険察知【50%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 涼州、武威郡祖厲県の人。張済の甥で張済が戦死した後にその軍を率いて曹操と対立した。賈詡の助言を受け入れて曹操に夜襲を行い曹昂・曹安民・典韋を討ち取って曹操をあと一歩の窮地に追い込むが、その後曹操に帰順している。 | ||
皇甫嵩【C】 | C | 官軍の統率【20-30%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 字は義真、涼州安定郡朝那県の出身。張角率いる黄巾軍を打ち破った名将として知られている。若い頃から文武に優れており、長じては有能かつ忠烈な武将として漢王朝に忠義を尽くし、相手が董卓であっても反目することを恐れなかったという。 | ||
朱儁【C】 | C | 悪霊退散【50%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 字は公偉、会稽郡上虞県の人。後漢末期の武将・政治家。黄巾の乱で皇甫嵩と共に各地を転戦して乱の平定に貢献した。小説『三国志演義』では義勇軍率いる劉備を指揮下に加え、劉備らに張宝の妖術を見破るための助言をして張宝の妖術を打ち破っている。 | ||
甘寧【C】 | C | 修練の武【40-60%】 | なし | 呉 | 10 | 字は興覇、益州の巴郡臨江県の人。元は遊侠の徒で若者を集めては武装させ、彼らの頭領となった。その後は黄祖に身を寄せるが冷遇され、やがて出奔して孫権に降っている。孫権は甘寧を旧臣同様に厚遇した。ここで彼は水を得た魚のような活躍を見せることとなった。 | ||
蒋欽【C】 | C | 奇襲の探知【50%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は公奕、九江郡寿春の人。早くから周泰と共に孫策に仕える。孫策が袁術に身を寄せていた時代から孫策の側近であったという。聡明ではあったが教養が欠けていたために呂蒙と同じく孫権に勉学に励むよう諭された。後に軍務・統率にも長けた人物へと成長している。 | ||
祖茂【C】 | C | 戦線離脱【20-30%】 | なし | 呉 | 10 | 孫堅配下の将。後の孫堅四天王の一人。董卓討伐戦に孫堅が参加したときに従軍した。孫堅が董卓軍に大敗して逃走した際に、孫堅がかぶっていた赤い頭巾を被って敵をおびき寄せる囮の役を買って出たという。騙された董卓軍は祖茂を追いかけたので孫堅は窮地を脱した。 | ||
潘璋【C】 | C | 守銭奴【50-60%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は文珪、兗州(えんしゅう)東郡発干の出身。孫権の子飼いの将で、酒のツケは出世して返すと豪語するほどの豪胆な性格の持ち主だった。部隊の統率に優れており、配下の士卒は兵数以上の働きを見せる部隊として名をはせていたという。 | ||
魯粛【C】 | C | 市井の交り【10-20%】 | アイテム|銭 | 呉 | 10 | 字は子敬、徐州臨淮郡東城県の人。はじめは袁術に仕え、その後に孫策・孫権に仕えた。赤壁の戦いでは逃走する劉備を長坂で迎え入れ、降伏派の多い中で主戦論を唱えて周瑜と共に開戦を主張した。赤壁の戦いに勝利し曹操を退けた後は劉備陣営との同盟維持に尽力している。 | ||
張邈【C】 | C | 逆意の緩和【50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は孟卓、東平郡寿張の人。後漢末期の政治家で張超の兄。陳留郡の太守だった。曹操に仕えるが後に裏切ることになる。曹操・袁紹とは若い頃から親交があり特に曹操とは互いが死んだときに家族の面倒を見る事を約束していたという。 | ||
程昱【C】 | C | 謀士の看破【50%】 | アイテム | 魏 | 10 | 字は仲徳、兗州東郡東阿県の人。曹操に軍師として仕え、魏の基盤作りに貢献した。身長が八尺三寸あり見事な髭をたくわえていたという。元の名前は程立といったが、若い頃に日輪を掲げ持つ夢を見たことから曹操に名を昱と改めるよう命令され程昱と改名した。 | ||
許褚【C】 | C | 守備の脊力【40-60%】 | なし | 魏 | 10 | 字は仲康、沛国譙県の人。曹操から曹叡まで三代に渡り仕えた武将である。身の丈は八尺を超えて腰が十囲を超える巨漢。怪力の持ち主で虎痴(こち)の異名で曹操に呼ばれ親しまれていた。曹操は警護役として彼を絶えず傍に置き、彼も幾度となく曹操の命を救っている。 | ||
陳宮【R】 | R | 謀士の看破【100%】 | 兵糧|銭 | 漢 | 30 | 後漢末期の武将。曹操を見限り呂布に奔った武将。裏切った経緯については諸説ある。呂布に対しては献身的に仕えた参謀であり忠臣だった。荀彧は陳宮を策謀に関しては自分より長けているが、主君を選ぶ能力にかけては自分に遥かに及ばないと評している。 | ||
浅井三姉妹【SP】 | SP | 花の系譜【60%】 | 防衛、防衛 | 劇 | 1 | 茶々・初・江の浅井三姉妹は織田信長の姪として生まれ、茶々は豊臣秀吉の側室として跡取・秀頼を産み、江は徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍・家光を産み、初は豊臣・徳川の関係改善に奔走した。戦国乱世の変遷に大きく関わったことから、三姉妹は時代を象徴する女性として語られることが多い。 | ||
織田信長【SP】 | SP | つるべ撃ち【30%】 | 兵糧、銭 | 劇 | 1 | 実質的な天下人となった信長は他の大名からの反感を招き「信長包囲網」が結成されるに至る。その辣腕を以て絶体絶命の危機を切り抜けた後、信長は自らを「第六天魔王」と名乗り日本国王として人々に畏敬された。だが天下布武を目前に重臣・明智光秀に背かれ、本能寺の変で没する。 | ||
戦国三英傑【SP】 | SP | 楽市楽座【30%】 | なし | 劇 | 1 | 三英傑とは、戦国時代に鉄砲を駆使した戦術で天下統一を目指した大名『織田信長』・信長の亡き後にその意思を継いで天下統一の夢を果たした『豊臣秀吉』・秀吉の没後、関ヶ原の戦いで天下を掴み江戸幕府を開いた『徳川家康』の3名の事である。 | ||
徳川家康【SP】 | SP | 権現しかみ面【100%】 | アイテム、銭、銭、防衛 | 劇 | 1 | 三英傑の一人。関ヶ原の戦いで石田三成を下し、征夷大将軍に着任し江戸幕府を開く。大坂の役で豊臣家を滅亡させて戦国時代に幕を下ろし、日本に約250年の太平の世をもたらした。天下統一に至る家康の手腕は、日本国内のみならず海外からも高く評価されている。 | ||
豊臣秀吉【SP】 | SP | 君臣豊楽【70%】 | アイテム、兵糧 | 劇 | 1 | 織田家の主権を握った秀吉は柴田・徳川を制した後、関白太政大臣の地位に就き豊臣姓を名乗る。大坂城を築き全国に出兵して諸国大名を併呑、名実ともに天下統一を果たす。一介の百姓の身分から天下人にまでなった秀吉は、戦国時代における「下克上」を真に体現する人物である。 | ||
魏延【SR】 | SR | 俺を殺せるか!【80-100%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 40 | 諸葛亮が病死すると魏延は自分が指揮官となって北伐を継続するよう主張、楊儀の指揮下に入ることを拒否した。その性格から賛同者を得ることができなかった魏延は次第に孤立し、最後には息子たち数人と出奔している。 | ||
張奐【C】 | C | 逆意の緩和【50%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 字は然明、敦煌淵泉の人。後漢時代の官僚・武将で主に辺境で活躍し、北境の異民族討伐で数々の功績を挙げた。当時の制度では辺境の者が中央へ移住することは禁じられていたが張奐はその功績の大きさに免じて特別に中央へ移住を許されている。 | ||
顔良【C】 | C | 袁紹軍の旗手【20-30%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 徐州琅邪国臨沂県の人と言われている。後漢末期、袁紹に仕えた武将。文醜と共に袁紹軍の将帥として知られ、孔融にも袁紹軍の勇将の代表として名前を挙げられている。官渡の戦いで荀攸の計にかかり、当時魏の客将であった関羽に討ち取られた。 | ||
馬超【R】 | R | 馬家の若武者【40-60%】 | 防衛 | 他 | 30 | 字は孟起、扶風郡茂陵県の人。後漢の名将馬援の子孫と称する一族の出身。父は馬騰、弟に罵休・馬鉄。いとこに馬岱がいる。劉備入蜀の際に劉備に仕えた。三国志後漢ではその雄姿から錦馬超として称えられた。五虎大将軍の一人に数えられている。 | ||
郭嘉【C】 | C | 迅速攻勢【20-30%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 字は奉孝、頴川郡陽翟県の人。曹操の策謀の相談役を捜していた荀彧の推挙で曹操に仕えることとなった。そのたぐいまれなる慧眼と、神算鬼謀なる知略を次々と的中させて曹操の覇業を助ける。正史においてはその才略謀略、世の奇士なりと評されている。 | ||
龐徳【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 他 | 10 | 字は令明、南安郡狟道県の人。涼州軍閥の馬騰・馬超父子配下の武将だった。曹操の漢中平定時に張魯と共に曹操に降伏した。曹操は龐徳の勇猛を知っていたのでこれを喜び重用している。後に白馬に乗り関羽軍を苦しめたことから白馬将軍と称された。 | ||
諸葛亮【SSR】 | SSR | 丞相の手腕【100%】 | アイテム|兵糧|兵糧|銭|銭 | 蜀 | 50 | 劉備の巨下となった諸葛亮は、天下三分の計を説く。これは華北の曹操、江南の孫権に対抗して荊州・益州を自領とし、漢の正統王朝を建国する計画だった。孫権と同盟し赤壁の戦いで曹操が敗れると劉備は荊州・益州を奪いその計を実現する。 | ||
曹操【SR】 | SR | 覇道の号令【80-100%】 | アイテム|兵糧|銭 | 魏 | 40 | 若いころの曹操は機知があり権謀にも富んでいたが、その一方で放蕩を好み素行が悪く、世間の評判は芳しくなかった。しかし太尉の橋玄はまだ無名だった曹操の才を高く評価している。橋玄が紹介した人物鑑定家の許劭は曹操のことを治世の能臣、乱世の奸雄と評した。 | ||
蔡瑁【C】 | C | 水軍の統率【20-40%】 | なし | 魏 | 10 | 字は徳珪、襄陽郡の人。荊州の有力豪族の一人だった。劉表が荊州に地盤を築く事ができたのは蔡瑁の功績だといわれている。劉表が病死すると劉琮をその後継者にするために張允と共謀し、当時劉表を頼って荊州に身を寄せていた劉備を追い出して劉琮の後継を実現させた。 | ||
韓当【R】 | R | 神速攻撃【20-【30%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた宿将。孫堅四天王の一人。派手な戦歴はないが、他の三人よりは年少だったため四天王の中で最も生き長らえ孫呉を支え続けた。北方の人間らしく馬と弓の扱いに長けており、江南人達ばかりの呉軍の中では異色の存在だった。 | ||
張勲【C】 | C | 防衛の指示【50%】 | 防衛 | 袁 | 10 | 袁術配下の武将。袁術が揚州を占領した際に大将軍に任命された。江東の小覇王こと孫策が一時期袁術の庇護下にあった時交友があり、張勲は孫策のことを高く評価してよしみを通じていた。曹操軍に攻撃され、袁術の敗死後は孫策の下に逃れようとしている。" | ||
文醜【C】 | C | モグモグ!【40-60%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 袁紹配下の武将。袁紹軍の中では顔良と並んで勇将と称された。官渡の戦いでは顔良の戦死に続いて、荀攸の策略による混乱の中で文醜も戦死した。顔良と並ぶ将軍二人を立て続けに失ったことで、袁紹軍の将兵は大きく動揺したという。 | ||
袁紹【R】 | R | 名門の誇り【40-60%】 | 銭|防衛 | 袁 | 30 | 名門袁家の御曹司で河北で巨大な勢力を有した群雄の一人。反董卓連合軍の盟主として立つ。公孫瓚を滅ぼして河北四州を抑える強大な勢力を形成した。その後徐州の劉備が曹操に攻撃されて官渡において曹操と対峙した。 | ||
徐盛【C】 | C | 荒天予測【50%】 | 防衛 | 呉 | 10 | 字は文嚮、徐州瑯邪郡の人。孫権の旗揚げ時から付き従っており、知勇に優れ少数の兵でよく敵を撃退した名将。赤壁の戦い、合肥の戦いや儒須の戦いなど、呉軍における主要な戦いのほとんどに参加した。呉水軍の要の将でもあり、偽城の計を使う知略も見せている。 | ||
李典【R】 | R | 荒天対策【100%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 30 | 曹操に仕えた武将。合肥の戦いでは、不仲であったとされる李典・張遼・楽進が国家の大事に私情は差し挟まないとして協力して戦うことを誓いあい、結果的に李典・張遼は共同して孫権率いる軍勢をたった八百の兵で迎え撃ち、見事に撃退している。 | ||
程普【R】 | R | 先手必勝【30-80%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 30 | 呉に仕えた武将。小説『三国志演義』では反董卓連合軍に参加した孫堅配下の勇猛な武人として登場した。鉄脊蛇矛という武器を駆り数々の一騎打ちを演じている。また多くの献策を挙げ知勇兼備の名将ぶりを発揮して赤壁の戦いでは血気にはやる周瑜のなだめ役に回っている。 | ||
凌統【R】 | R | 復習の悪鬼【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 呉に仕えた武将。同僚の甘寧はかつては黄祖の部下で父を死に追いやった敵でもある。甘寧との因縁について、小説『三国志演義』では濡須口の戦いでその甘寧に窮地を救われ、それがきっかけで父を殺された恨みを水に流して甘寧と固い親交を結んだとなっている。 | ||
孔融【R】 | R | 荒天対策【100%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期、献帝に仕えた文官で、建安時代の優れた詩人の一人に数えられている。劉備や太史慈とも交友があった。曹操の政治を痛烈に批難しことあるごとに対立。劉備討伐に反対したが聞き入れられず曹操の怒りを買い一族もろとも処刑された。 | ||
何儀【R】 | R | 兵糧強奪【20-40%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 黄巾党の武将。黄巾の乱が鎮圧された後も数万の軍勢を擁していたが討伐に来た曹操軍に敗れる。史実では曹操に降伏してその後の行方は不明。三国志演義では今だ独立勢力だった許褚に生け捕られた後、曹操の本陣に引き渡されて処刑されている。 | ||
張宝【R】 | R | 魔導の奥義【40-60%】 | 兵糧|防衛 | 他 | 30 | 西暦184年、張角から地公将軍の号を賜り、すでに病床の身であった兄の張角に代わって黄巾党の事実上の司令官として軍の指揮を執った。初戦こそ官軍を圧倒したものの、曹操・孫堅など若き英傑達が集結し体制を整えた官軍に次第に圧倒され、敗北した。 | ||
張梁【R】 | R | 黄巾の底力【30-40%】 | 兵糧|防衛 | 他 | 30 | 兄の張角が病死したのち、後を引き継いで官軍と戦ったが、勢いづいた官軍を止めきれず敗北した。三国志演義では火攻めを受けている最中に曹操からの攻撃を受け堪らず敗走し七度抵抗したものの最後に奇襲を受けて戦死したとされている。 | ||
波才【R】 | R | 一人一殺【40-60%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 黄巾党の武将。潁川で挙兵した黄巾軍を率いた。長社で皇甫嵩・朱儁率いる官軍に対し健闘するが強風を利用した皇甫嵩の火計をまともに受けて敗れる。敗走しているところに現れた援軍の曹操・孫堅・朱儁の奇襲を受けて大きな犠牲を出した。 | ||
馬超【SR】 | SR | 神威将軍【60-80%】 | 防衛|防衛 | 他 | 40 | 関中の軍閥の長である父・馬騰の配下として韓遂と争うが、曹操軍の涼州侵攻に対して宿敵の韓遂と休戦して連合軍を結成、潼関で曹操に戦いを挑んだ。この戦いで曹操を幾度と脅かすが敗退し、馬一族は長の馬騰をはじめ皆殺しにされた。 | ||
呂布【R】 | R | 打ち裂かれよ!【40-60%】 | 内政なし | 漢 | 30 | 字は奉先、後漢末期の武将・群雄。戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。三国志演義・正史ともに、三国志群雄の中で最強の武将として描かれている。匈奴討伐に功を挙げた名将・李広の通称を受け継ぎ、飛将軍という二つ名で呼ばれた。 | ||
雷薄【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 袁 | 10 | 揚州廬江郡の出身とされている。袁術配下の武将。しかし袁術が帝位を自称するようになり、呂布と曹操に敗北すると袁術を見捨てて僚友の陳蘭と共に出奔し灊山に立て篭もった。後に没落した袁術が頼ってきたが、受け入れを拒絶している。 | ||
逢紀【C】 | C | 防衛の指示【50%】 | アイテム | 袁 | 10 | 字は元図、荊州南陽郡の人。袁紹配下の政治家・武将。後漢の将軍・何進に仕えていた頃から袁紹とは親しく、後に許攸とともにその旗揚げを助けている。袁紹が河北を掌握して一大勢力を築くと、逢紀は審配と共に袁紹軍の軍務をになった。 | ||
武安国【C】 | C | 鉄槌の一撃【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 『三国志演義』に登場する武将。孔融配下で鉄槌の名手。武で国を安んじるという名の通り架空の人物である。反董卓連合軍に参加した孔融に従って虎牢関の戦いに参加。連合軍の武将を次々と一刀両断のもとに斬り捨てる呂布に対して一騎打ちを挑む。 | ||
孫堅【SSR】 | SSR | 猛虎の進撃【100%】 | 兵糧|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 反董卓連合軍の解散の後、袁術についた孫堅は荊州の劉表を攻めた。劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲するが黄祖の部下の不意打ちを受けて孫堅は無念の横死を遂げる。孫堅の残兵は袁術軍に吸収され、孫堅の志は長子の孫策が継ぐ事になった。 | ||
太史慈【R】 | R | 確殺の一矢【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 元は文官だったが、黄巾の乱以降、孔融の元で武将として活躍する事になる。やがてそこを出奔し劉繇に仕えた。孫策が劉繇を攻めた時に、孫策と一騎打ちを繰り広げるが劉繇軍は敗北。武勇を買った孫策に登用され、その後は呉に仕えた。 | ||
李傕【R】 | R | 西涼の暴れん坊【60-80%】 | 銭 | 漢 | 30 | 董卓亡き後に献帝を擁立、後漢の政治を専横する。しかし幼馴染である同僚の郭汜と争い、献帝劉協は長安を自力で洛陽に脱出した。李傕は郭汜と共にこれを追いかけるが曹操軍に惨敗を喫し、討伐軍を指揮した段煨によって殺された。 | ||
馬元義【R】 | R | 黄巾の動員【60-80%】 | 銭 | 他 | 30 | 太平道の教祖・張角の腹心。その死が黄巾の乱、ひいては三国時代の引き金となった人物とも言える。朝廷工作を担当し洛陽に潜入するが部下の裏切りにあい捕縛、処刑された。腹心の死に憤激した張角は各地の支部に一斉蜂起を呼びかけた。 | ||
許褚【SR】 | SR | 破壊の拳【80-90%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 40 | 小説『三国志演義』では、曹操が捕らえた黄巾の総大将・何儀の身柄を典韋と奪い合う場面で登場している。許褚は典韋との一騎打ちで一歩も引かず、その強さに驚いた曹操が興味を持ち、偽の退却で許褚を罠にかけ落とし穴に引っかけて捕え、自分の配下に加えるという展開となっている。 | ||
徐晃【C】 | C | 柔軟な用兵【30-40%】 | なし | 魏 | 10 | 字は公明、河東郡楊県の出身。はじめ楊奉に仕えており後に曹操に帰順した。その人柄は決して奢らず部下にも親身に接した人望の厚い武将で、堅実な戦いをし決して大敗することが無かったという。樊城の戦いでは関羽の軍を破り、敗走した関羽は呉に捕えられ斬首されている。 | ||
華雄【R】 | R | 鬼将軍の指揮【40-60%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期の武将。小説『三国志演義』では、董卓配下の猛将として正史とは見違えるような活躍を見せる。身の丈九尺を誇る豪傑であり、半董卓連合軍の多くの武将を討ち取る。しかし続いて出撃してきた関羽の前に一合にして討ち取られてしまった。 | ||
程遠志【R】 | R | 志は程遠く【60-80%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。黄巾賊の将で5万の黄巾兵を率いて幽州を襲撃し、義勇軍を結成した劉備の緒戦の相手となった。横山光輝の『三国志』では劉備軍の粗末な姿を見て乞食の軍隊だとあざ笑った直後に張飛に瞬殺されている。 | ||
麹義【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 袁 | 10 | 涼州西平郡の出身と見られる。はじめ韓馥に仕えていたが裏切って袁紹に仕えた、北方民族との戦乱で鍛え上げられた麹義の軍団は袁紹軍屈指の精強さを誇った。袁紹と公孫瓚と争った界橋の戦いにおいて先鋒を務め、寡兵を以って公孫瓚軍に大打撃を与えている。 | ||
典韋【C】 | C | 悪来の叫び【20-30%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 陳留郡已吾の人。はじめ反董卓連合軍に参加した張邈に仕えるが出奔。誰も持ち上げることのできなかった牙門旗を片手で持ちあげたほどの怪力を披露したことから夏侯惇の目に止まり、配下となる。後に曹操の親衛隊である精鋭数百人を率いることになった。 | ||
文醜【R】 | R | モグモグモグ!【60-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 袁紹配下の武将。『三国志演義』では身の丈八尺を越え、顔は伝説上の神獣のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定だった。史実同様に官渡の戦いで荀攸の罠にかかり敗走している。関羽に打ち負け、背後から斬殺されてしまう。 | ||
太史慈【C】 | C | 狙い撃ち【20-30%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 字は子義、青州東莱郡黄県の人。孫策との一騎打ちで有名な人物。孫策に降った後も帝位を目指すという野心を失っていなかったという。また曹操も一目置いており、孫策の死後に好待遇で自分の陣営に引き抜こうとしていた。 | ||
張邈【R】 | R | 逆意の抑圧【100%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 陳留郡の太守だったが後に董卓討伐に参加することになる。曹操とは友人であり、強い信頼関係で結ばれていた。しかし袁紹とは不仲になり、そのことから曹操がいずれ袁紹の圧力に屈して自分を殺すのではないかとの不安に駆られて曹操を裏切った。 | ||
劉繇【C】 | C | 街道の整備【40-50%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は正礼、青州東莱郡牟平県の人。後漢末期の政治家。漢の皇族の一人。県令から出世し揚州牧となり曲阿を本拠地とした。呉景の雪辱を果たすべく曲阿に向かって攻め込んできた孫策軍に対するが、配下を使いこなせずに大敗して豫章に落ち延びた。 | ||
厳白虎【C】 | C | 野生の勘【30-40%】 | 内政なし | 他 | 10 | 揚州呉郡烏程県の人で漢王朝末期の混乱に乗じて起った群雄の1人。小説『三国志演義』では別号の白虎(はくこ)として登場、東呉の徳王と自称している。呉郡石城山を根拠地として1万人以上の勢力を築き上げ、江東に地盤を敷いた孫策と対立した。 | ||
厳白虎【R】 | R | 徳王の威圧【40-60%】 | 防衛 | 他 | 30 | 揚州呉郡の豪族で、江東で勢力を伸ばす孫策と対立した。孫策が揚州の平定に乗り出すと厳虎は怖気づき、弟を和睦の使者として送るがその場で殺されてしまう。その後親交があった王朗を頼り同盟を組んで孫策と戦うが大敗して逃亡している。 | ||
楽進【SR】 | SR | 豪槍炎舞【80-100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 曹操配下の武将。西暦215年の合肥の戦いの時には不仲であった張遼と旧怨を忘れて共に難儀に立ち向かい、寡兵で孫権の大軍を破っている。陳寿は魏で最も功績があった一人として、張遼・于禁・徐晃・張郃とともに同じ巻に伝をおき、楽進を驍勇果断と評している。 | ||
郭嘉【SSR】 | SSR | 真・神速攻勢【100%】 | 兵糧|銭|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 曹操軍きっての軍師。素行の悪さを度々弾劾されたが、その並ぶ者のない才覚は誰もが認めるところだった。烏桓討伐後に38歳の若さで病死。その死を惜しむ詩を曹操自ら残している事から、曹操幕下における存在感の大きさが伺える。郭嘉が生きていれば赤壁での敗北も無かったであろうとも言われている。 | ||
張遼【R】 | R | 猛将の奇襲【30-80%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 魏の類まれなる武威を持つ武将で魏の五将軍の筆頭格とされる。合肥の戦いでは僅かな手勢で討って出て呉の大軍を撃破した。自ら先頭に立ち敵を討つその姿を見て呉軍は恐慌し混乱を起こしたという。孫権は後々も張遼を恐れることとなった。 | ||
韓当【C】 | C | 迅速攻勢【20-30%】 | なし | 呉 | 10 | 字は義公、幽州遼西郡令支県の人。孫堅・孫策・孫権の三代に仕え呉を支えた宿将。孫堅に取り立てられ、その武勇を認められ数々の合戦に従軍した。孫堅の死後、韓当の軍は一時袁術軍に吸収されるが、孫堅の子・孫策が立つと帰参。江東侵攻に功績を挙げた。 | ||
孫堅【C】 | C | 猛虎起つ【20-30%】 | なし | 呉 | 10 | 字は文台、呉郡富春県の人。三国時代の群雄の一人で、呉の皇帝となった孫権の父。呉建国の礎を築いた。後に武烈皇帝の諡(いみな)を贈られる。海賊退治で名を挙げ黄巾の乱では後漢の将軍・朱儁に従って功績を挙げると長沙太守となる。その後反董卓連合軍に参加した。 | ||
凌操【C】 | C | 逆撃の統率【50%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 呉郡余杭の人、凌統の父。孫策・孫権に仕えた。剛毅果断な人物であり武勇に秀でていたという。孫策が兵を興すと自身もそれに従い常に孫策軍の先鋒を任されている。永平県に赴任し県長を務めて山越族の討伐などに功績をあげ、破賊校尉に昇進している。 | ||
孫策【C】 | C | 若虎の一撃【20-30%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は伯符、呉郡の将軍であった孫堅の長子。弟は呉の初代皇帝となった孫権で江東の小覇王の異名をとる。父の覇業を引き継ぎ、父の死後に一度は没落した孫家を独立し再興させた。後の三国の一方、呉の礎をその短い人生のなか一代で築き上げて弟の孫権に継いでいる。 | ||
呂蒙【C】 | C | 若武者の蛮勇【20-30%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は子明、汝南郡富陂の人。姉の夫である鄧当は孫策の武将であり、賊討伐に出向いた鄧当軍にこっそりついて行ったことが仕官の始まりだったという。当初は武辺一辺倒であったが、孫権に諭された後は勉学にも励み、そのうち軍略家としても頭角を現すようになった。 | ||
周泰【C】 | C | 不動金剛【20-30%】 | 防衛 | 呉 | 10 | 字は幼平、九江郡下蔡の人。武勇に優れ孫呉の守護神と呼ばれる。蒋欽とともに孫策に仕え、孫策の死後は孫権に長く仕えた。宣城の戦いでは油断から山越の反乱軍に襲われて命の危険にさらされた。しかし周泰は全身に傷を負いながらも孫権を守りきっている。 | ||
董襲【C】 | C | 頂いちまいな!【10-20%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は元代、揚州会稽郡余姚県の人。孫策・孫権に仕えた。身の丈八尺で、並外れた武力の持ち主だったという。孫策が会稽に来たときに、孫策から人物の立派さを認められて配下となった。数千の兵を与えられて山越の賊討伐、劉勲や黄祖の討伐で活躍している。 | ||
朱桓【C】 | C | 奇襲攻撃【20-40%】 | アイテム | 呉 | 10 | 字は休穆、呉郡呉県の人。朱異の父。朱拠と同族。孫権が将軍となったときに取り立てられた。プライドが高く傲慢な性格で、主君の孫権以外からは命令を受けることを恥としていたという。一転、配下に対しては優しく部下想いの人物で大変に慕われていた。 | ||
諸葛瑾【C】 | C | 政の才覚【40-50%】 | 兵糧 | 呉 | 10 | 字は子瑜、琅邪郡陽県の人。呉に仕えた政治家・武将。蜀の諸葛亮の兄にあたり、瑾の次男の諸葛喬は諸葛亮の養子となっている。戦乱を避け、一族が江東に南下して孫権へと仕えた。外交官、参謀として活躍し、孫権からの信頼は厚く、国中から人望を集めていた。 | ||
闞沢【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 呉 | 10 | 字は徳潤、揚州会稽郡山陰県の人。呉に仕えた政治家・儒学者。貧農の家の生まれだが、苦学して優れた学識を身に付け名を知られるようになる。やがて孫権が驃騎将軍になると招かれ仕官した。後に皇太子となる孫和の講師となり、諸学や儀礼を教えている。 | ||
凌統【C】 | C | 復讐鬼【30%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は公績、揚州呉郡余杭県の人。呉に仕えた勇将。義に厚く若くして国士の風を有していたという。精鋭一万人余りを配下に立身した後に故郷を通りかかった時にも、役人に対しうやうやしく礼を尽くし、旧友にも変わらず親しく接していたという逸話が残っている。 | ||
丁奉【C】 | C | 謀士の看破【50%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は承淵、揚州廬江郡安豊県の人。孫権の時代から四代にわたって呉に仕えた。その勇猛さを孫権に買われ、十代の若さで部隊を預けられ戦場で育つ。甘寧・陸遜らの指揮下のもと敵将を討ち取り軍旗を奪うなど大いに武功を挙げたという。 | ||
于禁【R】 | R | 奇襲の迎撃【100%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 魏の武将。曹操軍の誇る名将の一人とされる。官渡の戦い、赤壁の戦い、潼関の戦いなど主要な戦に必ず従軍し数々の軍功を立てた。演義では曹操の命で降伏した劉琮を暗殺するなど、後暗い役割もこなしている。曹操に対する忠誠と功績は臣下随一であったが、後にただ一度の敗北で全てを失う事になる。 | ||
楽進【R】 | R | 豪槍の一撃【60-80%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操配下の武将。小柄ではあるが勇猛果敢であり後に魏の五将軍の一人に数えられることとなる。曹操の元では幾多の戦いで一番乗りの武功を挙げ、呂布討伐戦や劉備との戦い、官渡の戦いなどの決戦で多大な戦果を挙げた。これらの功績によって折衝将軍に任命されている。 | ||
夏侯淵【R】 | R | 妙才の弓術【30-80%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操が旗上げした時から付き従った最古参にして主力の将の一人。急襲・速攻を中心とした機動戦に長じており、前線型武将の指揮だけではなく兵糧監督などの後方支援をも得意としていた。その迅速な行軍は三日で五百里、六日で千里と称えられている。 | ||
蔡瑁【R】 | R | 水軍の指揮【60-80%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 荊州に地盤を築いた劉表に仕える。劉琮の後継を実現するがその直後に曹操の大軍が攻めてきた際に劉琮は戦わずして降伏してしまいその後、蔡瑁は曹操に仕えることになった。小説『三国志演義』では赤壁の戦いで水軍都督として指揮を任されるが、この時にあらぬ嫌疑をかけられて処刑されてしまった。 | ||
荀彧【R】 | R | 人材の発掘【60-80%】 | アイテム|銭|銭 | 魏 | 30 | 字は文若、潁川郡穎陰の出身。曹操に仕えその覇業を支えた軍師。若くして王佐の才、王を助ける人材とも称揚された。後漢末の動乱期においては後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行いその覇業を補佐している。 | ||
鍾繇【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | アイテム|兵糧 | 魏 | 30 | 魏の政治家・武将・書家。魏郡太守となった後は民を事を考えた献策を続け、曹爽が失脚すると御史中丞、後に青州太守となった。子の鍾会と異なり着実に成果をあげて出世の道を進んだ鍾繇は死去の後、車騎将軍を追増された。 | ||
曹洪【R】 | R | お宝頂戴!【40-50%】 | 銭 | 魏 | 30 | 曹操のいとこにあたる武将。曹操の死後は魏の初代皇帝となる曹丕に仕えた。数々の功績により栄達するが、一方欲が深くてケチな一面を持っていたので曹丕に憎まれてしまい死罪を受けたこともあった。この時は、曹丕の生母・卞太后の取り成しによって罪を免れている。 | ||
皇甫嵩【R】 | R | 官軍の指揮【60-80%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期、黄巾の乱で武功を挙げた漢の名将。その有能さと清廉潔白な人柄から董卓に憎まれた。王允・呂布による董卓殺害後は再び栄進したが太尉となったその直後に病没。病死とはいえ激動の時代を生き抜き、天寿を全うしている。 | ||
盧植【R】 | R | 奇襲の迎撃【100%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 霊帝の要請を受け朝廷に出仕した盧植はまず五経の改定に携わっている。また、朝廷から遠ざけられていた時期には劉備や公孫瓚に学問を教えていた。黄巾の乱の際には討伐軍の指揮官に任命され、張角軍を破る功績を上げている。 | ||
朱儁【R】 | R | 悪意消失【100%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 後漢に仕えた武将・政治家。黄巾賊討伐で皇甫嵩に次いで大きな功績を挙げる。その功で車騎将軍に任ぜられるが当時王朝を専横していた宦官への賄賂を拒んだため罷免された。その後も栄光の前半生に比べ不遇の晩年を送って憤り、病を発して病没している。 | ||
董白【R】 | R | 冷徹なる瞳【60-80%】 | 兵糧|銭 | 漢 | 30 | 後漢末期の女性。乱世の梟雄と呼ばれた童卓の孫娘にあたる。正史のみ記述があり三国志演武には登場しない。まだ十五歳にも満たない少女の頃、祖父・童卓から渭陽君たして僻地と部下を与えられ、それを証明する印綬まで授けられたという。 | ||
小龍 | C | 武将経験値獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 経験値300 | テンカを目指すものの前に、時として現れるとってもお目出度い天の使い。武将継承時に使用すると経験値300を入手できる。 | |
龍王 | R | 武将経験値獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 経験値500 | テンカを目指すものの前に、時として現れるとってもお目出度い天の使い。武将継承時に使用すると経験値500を入手できる。 | |
大龍王 | SR | 武将経験値獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 経験値1000 | テンカを目指すものの前に、時として現れるとってもお目出度い天の使い。武将継承時に使用すると経験値1000を入手できる。 | |
銭亀 | C | 銭獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 2千銭で売却 | 亀は古来より中国では吉兆として信じられ、四霊の一つとして数えられていました。四霊とは麒麟、鳳凰、霊亀、応龍の事です。霊亀は千年を生きた亀が霊力を持ったものとされています。三国テンカトリガーでは愛らしい外見から愛玩用や長寿の妙薬として重宝されており2千銭で売却できます。 | |
銀銭亀 | R | 銭獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 1万銭で売却 | 亀は古来より中国では吉兆として信じられ、四霊の一つとして数えられていました。四霊とは麒麟、鳳凰、霊亀、応龍の事です。霊亀は千年を生きた亀が霊力を持ったものとされています。三国テンカトリガーでは愛らしい外見から愛玩用や長寿の妙薬として重宝されており1万銭で売却できます。 | |
劉備【SSR】 | SSR | 漢中王の号令【100%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀の初代皇帝。漢中王。黄巾の乱の後、諸国を放浪し劉表や陶謙の下にも身を寄せ、その間に趙雲などの精強な武将を従えて行く。やがて同族の劉璋を倒すと益州の地に蜀を建国。高祖劉邦の故事に倣い自らを漢中王と称した。 | ||
劉備【R】 | R | 信義の結束【30-80%】 | 兵糧|アイテム | 蜀 | 30 | 字は玄徳。のちに蜀を建国しその初代皇帝となる。明代の群像小説『三国志演義』では事実上の主役として登場している。関羽・張飛と桃園の誓いにて義兄弟となり、後漢末期の群雄が乱立している中に各地を放浪しながらも生き延びていく。 | ||
劉表【C】 | C | 荊州の防衛【20-30%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は景升、山陽郡高平県の人。後漢末の混乱期に荊州に割拠した。はじめは何進に仕えている。霊帝死後に詔勅によって荊州刺史に任じられる。長江南岸は土豪が割拠していたため、蒯越・蒯良らと図って現地の不穏分子を鎮圧し荊州北部を治めた。 | ||
黄祖【C】 | C | 太守の統率【20-40%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 劉表配下の武将。孫堅との戦いで部下の呂公が孫堅を射殺したため、孫策・孫権から親の仇として狙われ、それ以降は抗争状態となっている。また水賊出身の甘寧を重用せず、後に彼を孫権の下に逃亡させてしまうなど狭量な逸話が目立つ。 | ||
徐盛【R】 | R | 荒天対策【100%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 30 | 呉の孫権に仕えた武将。小説『三国志演義』では呉の国主となった孫権が広く人材を求めたときに招かれて家臣となった人物として登場、より猛将肌の人物として描かれている。曹丕を欺いた偽城のことも取り上げられており、魏に赤壁の戦いに匹敵する被害を与えている。 | ||
馬騰【C】 | C | 西涼の馬術【20-30%】 | 内政なし | 他 | 10 | 字は寿成、扶風郡茂陵県の人。馬超の父であり西涼の名士。身長八尺の堂々とした容貌で温厚な性格だったという。涼州に一大軍閥を形成して董卓や曹操といった権力者に対して争う姿勢を見せるが、やがて朝廷に出仕し馬超が涼州の勢力を継いだ。 | ||
典韋【R】 | R | 悪来の怒号【30-40%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 30 | 曹操に仕えた武将。怪力の持ち主で八十斤もの双鉄戟と手投げ用の短戟を愛用していた。濮陽の戦いでは、呂布軍の襲撃に対して短い戟を十数本持ち、その全てを敵に中てて進撃を止めたことから、殷の悪来になぞらえて悪来典韋と呼ばれることとなった。 | ||
車胄【R】 | R | 遠征軍の末路【40-60%】 | 兵糧 | 魏 | 30 | 小説『三国志演義』では、まず先に曹操が車冑に劉備殺害を命じ、そしてそれを事前に察知した陳登が関羽や張飛に報告。関羽や張飛が曹操軍に成り済まして車冑軍に潜り込んで車冑を倒した。史実とは違い、劉備が身を守るためやむなく車冑を倒す展開となっている。 | ||
何皇后【R】 | R | 魅惑の視線【60-80%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 後漢王朝・霊帝の皇后で、少帝弁の生母・皇太后。南陽の屠殺家という身分の低い出自だったが賄賂を用いて後宮に入った。霊帝の寵愛を受けて男子劉弁を生む。その後、皇后であった宋氏が寵を失い廃されたために西暦180年皇后に立てられた。 | ||
何皇后【SR】 | SR | 蠱惑の視線【80-100%】 | アイテム|防衛|防衛 | 漢 | 40 | 後漢王朝・霊帝の皇后。わが子劉弁が少帝弁として即位し、自らは摂政皇太后となった後も政争に明け暮れている。宮中は混乱をきわめ、結果的に洛陽に入った董卓が権限を手中にした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し何皇后は毒殺された。 | ||
献帝【SR】 | SR | 漢帝の勅命【80-100%】 | 兵糧|兵糧|防衛 | 漢 | 40 | 後漢王朝最後を看取ることになった皇帝。西暦196年にようやく王権は安定をみるが、それは曹操の傀儡としてのものであった。西暦220年に曹操が死ぬと子の曹丕は献帝に帝位の禅譲(ぜんじょう)を迫った。献帝もこれに抗えずついに帝の位を失い、ここに後漢は滅亡した。 | ||
馬騰【R】 | R | 疾風の進軍【65-85%】 | 防衛 | 他 | 30 | 後漢末期の武将。馬超の父。涼州に割拠する群雄の一人であったが後朝廷に出仕する。史実では馬超と韓遂が後漢王朝を専横する曹操に反旗を翻した。その後潼関の戦いで馬超が敗退、曹操によって都にいた馬騰は一族とともに皆殺しにされている。 | ||
呂布【SR】 | SR | 砕けよ凡夫!【60-80%】 | 内政なし | 漢 | 40 | 三国志群雄の中でも最強の武将とされる。武勇伝としては虎牢関の戦いが有名である。この戦いで彼は三国志でも屈指の猛将である劉備・関羽・張飛の三兄弟を相手に互角の戦いを繰り広げ、呂布は一歩も引かなかった。 | ||
張角【SSR】 | SSR | 太平要術【100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 他 | 50 | 西暦184年、彼は陰陽五行思想に基づき天下太平を唱え漢王朝打倒のため挙兵する。この際に自らを天公将軍と称し権威づけをおこなった。中原を席巻した黄巾軍ではあったが張角自身は乱を起こした直後に病魔に襲われ、志半ばで倒れている。 | ||
劉備【SR】 | SR | 信義の体現【80-100%】 | 兵糧|アイテム|防衛 | 蜀 | 40 | 蜀を建国、漢中王を名乗り初代皇帝となる。涿郡涿県の人で生家は土豪の身分ながら貧しかった。男伊達を気取り、豪侠と好んで交わり徒党を組む若者であったが、黄巾の乱がおこると関羽・張飛らと義勇軍を結成し、その名を挙げている。 | ||
単福【C】 | C | 火計【20-30%】 | 銭 | 蜀 | 10 | 字は元直、豫州潁川郡長社県の人。単福の名は世をはばかる偽名で本名は徐庶という。劉備にとっての初の軍師であり、諸葛亮を推薦して劉備に自ら赴く事を薦めたのは彼である。こうして劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え入れることになった。 | ||
夏侯姫【R】 | R | 射撃の指揮【30-80%】 | 兵糧 | 蜀 | 30 | 蜀の猛将・張飛の妻。夏侯淵の姪。張皇后・敬哀皇后の母。魏略では劉備が袁紹のもとに身を寄せていた頃に山賊をしていた張飛が薪拾いをしていた女をさらった。この女性が夏侯淵の姪だと判明し正式な妻として娶ったという記録が残っている。 | ||
太史慈【SR】 | SR | 剛弓撃【60-80%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 40 | 劉繇配下の将。劉繇が孫策に敗れた後も自ら兵士をまとめて抵抗するが敗れて捕らえられる。しかし孫策は太史慈の縄を自ら解いて配下に加えた。以降、太史慈は孫呉に忠義を尽くし孫策、後には孫権からも重用されている。 | ||
丁奉【R】 | R | 謀士の反計【100%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 四代に渡って孫呉に仕え続けた宿将。小説『三国志演義』では赤壁の戦いから将軍として登場している。鉄つぶての名手で切り札として使っており、呉の陣から荊州へと逃れる諸葛亮の船に鉄つぶてを投げ、船の帆を落としている。 | ||
武安国【R】 | R | 鉄槌一閃【40-60%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 孔融配下の武将。虎牢関の戦いにて呂布に果敢にも一騎打ちを挑むが、十数合打ち合った末に片腕を斬り落とされて敗走した。負けたとはいえ呂布を相手に十数合打ち合い、片腕を失っただけで生還できたことが武安国の何々ならぬ武勇を示している。 | ||
張奐【R】 | R | 逆意の抑圧【100%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 都へ戻った張奐は、そこで士人と宦官の権力抗争に巻き込まれる。宦官に利用されて知らずして士人を討った張奐は深く恥じ昇進を固辞した。その後は家に篭り学問に没頭して西暦181年、79歳で天寿を全うした。 | ||
何進【R】 | R | 大将軍の檄【60-80%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期の武将。何皇后の兄。黄巾の乱の際には大将軍となった。その後、黄巾の乱の原因でもある腐敗した宦官を廃そうとするも逆襲に遭って暗殺される。何進が殺されたことで逆上し宮中に突入した袁紹により、宦官は今度こそ完全に廃された。 | ||
呂蒙【SR】 | SR | 阿蒙に非ず【80-100%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 40 | 孫策・孫権に仕えた。猛将から知勇兼備の名将に転身。魯粛の後を継いで呉国をまとめた。部下となった智将・陸遜を用いて関羽との荊州領土戦に打ち勝ち、関羽を捕えてその首を刎ねた。その後病死するが、小説『三国志演義』では関羽の亡霊に呪われて狂い死にしたとされている。 | ||
程昱【R】 | R | 謀士の反計【100%】 | アイテム|防衛 | 魏 | 30 | 彼は曹操の参謀として判断力と胆力に優れ何事にも決断が早く、時には強行的な手段に出ることもいとわなかったという。彼の予見したことは後にことごとく当たっている。倉亭の戦いで袁紹を叩き伏せ、その後の袁一族の没落を決定づけた十面埋伏の計が特に有名である。 | ||
張飛【SR】 | SR | 猛将の号令【80-90%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 40 | 劉備の入蜀後、五虎大将軍に任ぜられる。その後も張郃を漢中から撃退する活躍をみせた。しかし劉備の関羽の弔合戦で呉侵攻の準備中に部下の范彊・張達に殺害されている。部下に厳しかったがゆえに恨みを買いその死を招いたと言われている。 | ||
張遼【SR】 | SR | 遼来来【80-100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 魏の類まれなる武威を持つ武将で、魏の五将軍の筆頭格とされる。合肥の戦いでは僅かな手勢で討って出、呉の大軍を撃破した。自ら先頭に立ち敵を討つその姿を見て呉軍は恐慌し混乱を起こしたという。孫権は後々も張遼を恐れている。 | ||
夏侯惇【SR】 | SR | 隻眼将の檄【80-90%】 | 兵糧|防衛|防衛 | 魏 | 40 | 魏の隻眼将軍。史実では軍政家として活躍している夏侯惇だが、小説『三国志演義』では武勇に秀でた猛将に描かれている。曹操からはもっとも信頼され家臣の中では唯一臣下の礼を取らず接することを許されていた。曹操は自分の死後、夏侯惇に魏のすべてを任せようとした。 | ||
関羽【SR】 | SR | 万人敵【80-100%】 | 兵糧|銭|防衛 | 蜀 | 40 | 蜀の創始者となる劉備に仕えた武将。小説『三国志演義』では見事な髯をたくわえていた為、美髯公と呼ばれた。身の丈九尺の堂々たる偉丈夫、二尺の長い髭、紅顔で、重さ八十二斤の青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀を持ち、元は呂布の馬であった赤兎馬を駆っている。 | ||
臧覇【R】 | R | 勇士の指揮【60-80%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 30 | 小説『三国志演義』では呂布配下の八健将の一人として登場する。一騎打ちで曹操の武将・楽進と互角に渡り合い、曹操を後一歩の所まで追い詰めるが惜しくも典韋に撃退された。呂布が滅亡すると臧覇は泰山の山賊も説得した上で曹操に降伏している。 | ||
霊帝【R】 | R | 銅臭政治【40-50%】 | アイテム|銭 | 漢 | 30 | 後漢第十二代皇帝。後漢末期の政治の腐敗ぶりに憤った民衆が黄巾の乱を起こすとそれは中国全土を巻き込む大乱となる。結果、菫卓や孫堅などのような地方豪族が力をつけて独立し三国時代を形成するきっかけとなった。霊帝は西暦189年に崩御している。 | ||
李儒【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 小説『三国志演義』では董卓の娘婿として登場する。董卓へ悪政の進言を積極的に行うなど知恵袋的人物として暗躍した。また王允の放った連環の計にも気付いて董卓に呂布との対立を諫めるが聞き入れられず、董卓滅亡に連座させられて処刑された。 | ||
陳宮【SR】 | SR | 名参謀の明察【100%】 | 兵糧|銭|防衛 | 漢 | 40 | 呂布に最後まで忠義を尽くした参謀。呂布が戦意を喪失し曹操に降伏した後、曹操は重ねて陳宮に帰順を薦めるが彼はそれに応えず呂布・高順らと共に絞殺の道を選んだ。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、娘も嫁ぐまで面倒を看たという。 | ||
陳登【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|銭 | 漢 | 30 | 呂布にうまく取り入った陳珪・陳登親子は陳宮ら側近武将を讒言(ざんげん)して君臣の関係を崩していった。とうとう呂布・陳宮らは同士討ちをしてしまう。その混乱に上じて曹操が来襲し徐州の制圧に成功している。 | ||
宋憲【R】 | R | 有事への備え【30-60%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 呂布配下の武将。小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の一人として登場する。呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降伏したのが彼である。曹操との戦いでは魏続らとともに曹操を後一歩まで追い詰めるものの、曹操軍の典韋に撃退されている。 | ||
高順【R】 | R | 陥陣営【60-80%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 呂布軍の猛将。その部隊は不敗の意味を持つ陥陣営の異名で呼ばれた。その武勇と忠誠心にもかかわらず呂布には重用されなかった。呂布軍は曹操に敗亡し囚われるが、命乞いをする呂布を横目に高順は処断される最期の時まで呂布への忠義を貫き通している。 | ||
裴元紹【R】 | R | 思わぬ発見【40-50%】 | 銭 | 他 | 30 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。もとは黄巾賊で山賊まがいの生活を送っていた。関羽の豪傑ぶりに恐れ入り配下になることを望むもたまたま通りがかった趙雲の馬を見て惚れ込み、その馬を盗もうとして趙雲に斬り殺されてしまっている。 | ||
夏侯淵【SR】 | SR | 弓術の極致【80-100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 曹操とは同族で一族の中で随一の勇猛さを誇ったという。旗揚げの時から曹操につき従い、官渡の戦いでは督軍校尉を代行して兗州・徐州の兵糧を取り仕切っている。涼州で馬超の勢力を壊滅させた後これらの功で征西将軍に任じられ、漢中の守備をまかされることとなった。 | ||
荀攸【SR】 | SR | 大瀑布の計【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 魏 | 40 | 曹操の覇業を支えた軍師の一人。漢王朝を想う気持ちが強かった叔父の荀彧とは違い、曹操の魏王即位について特に意見はなかったとされる。曹操との関係は荀攸がこの世を去るまで終始良好であった。曹操は荀攸の死後、荀攸の話をするたびに涙を流したという。 | ||
曹洪【SR】 | SR | 銭神の加護【50-60%】 | 銭|防衛 | 魏 | 40 | 小説『三国志演義』ではやや血気盛んな武将として描かれており、曹操の命令を破って勝手に撃って出てしまうこともあった。武功は目立たないながらも一騎打ちでは負けが無く、甘寧や韓当・馬超といった猛将たちとも互角に剣を交えている。 | ||
曹仁【SR】 | SR | 金剛の構え【60-80%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 三国時代魏の武将で曹操の従弟。魏の最古参武将の一人で後には大将軍・大司馬となる。関羽との戦いでは漢水の氾濫により絶望的な状況に陥るも樊城を守り切り、蜀軍は退却。この樊城攻略失敗が関羽の死の遠因にもなっている。 | ||
郭嘉【SR】 | SR | 神速攻勢【80-100%】 | 兵糧|銭|防衛 | 魏 | 40 | 赤壁の戦いの前年、郭嘉は若くして夭折する。これを曹操は、悲しく、痛ましく、惜しいと深く悲しんだという。曹操は揚州での南征において郭嘉の憂慮したとおり疫病に苦しめられ、赤壁の戦いに大敗した際には曹操をして、郭嘉さえいればこの大敗は免れたであろうとまで言わしめた。 | ||
徐晃【SR】 | SR | 不敗の名将【50-60%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 小説『三国志演義』では大斧を愛用する武将として登場している。荊州の戦いでは怪我を負っていたとはいえあの関羽を一騎打ちで退ける活躍を見せた。その最後は謀反を起こした孟達の討伐に向かった先で孟達が放った矢が額に命中、大量出血で絶命するという壮絶なものであった。 | ||
徐庶【SR】 | SR | 要撃の大火計【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 魏 | 40 | 魏に下った徐庶はそれ以降没するまで魏に仕えるが目立った活躍は無く、無難に勤め上げた。一説には劉備に対する情を捨てきれず、蜀に不利になる献策をあえて行わなかったとも言われている。諸葛亮の死期と同じくして彭城で病死した。 | ||
賈詡【SR】 | SR | 真・離間の計【80-100%】 | 銭|防衛 | 魏 | 40 | 魏に仕えた政治家。魏の屈指の名参謀。曹操のもとでは数々の献策を挙げ、その的確さで曹操の覇業とその後の魏の擁立に大いに貢献している。他の臣下とは私的な交流は少なく、争い事が無いまま無難に乱世を乗り切って生を全うしている。 | ||
張郃【SR】 | SR | 魏軍の猛将【80-100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 魏の宿将。魏の五将軍の一人。曹丕、そして曹叡の時代も張郃は功績を挙げ昇進を重ねていった。その後、諸葛亮による北伐が始まり張郃もこの防備に務めた。街亭において山頂に布陣した馬謖を大破して蜀軍の撃退に成功している。 | ||
凌操【R】 | R | 逆撃の指揮【100%】 | 兵糧 | 呉 | 30 | 後漢末期の武将、凌統の父。孫策の死後は孫権に仕えた。西暦203年に孫権が黄祖討伐に向かうとそれに従軍し一番乗りで斬り込むが黄祖配下の甘寧に迎え撃たれて矢で射殺された。これが因縁となって凌操の息子・凌統は甘寧を父親の仇敵としてつけ狙うようになる。 | ||
呂蒙【R】 | R | 切込隊長【30-80%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 孫策・孫権に仕えた武将。周瑜の死後に呉の筆頭軍師となった魯粛は当初、呂蒙を武辺だけの男としか認めていなかった。だが呂蒙は訪れてきた魯粛に対関羽の策を示して彼を感嘆させた。これが後に士別れて三日なれば括目して相待すべし、の故事となった。 | ||
黄忠【SR】 | SR | 老当益壮【40-50%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 40 | 劉備に仕えた武将。小説『三国志演義』では韓玄の配下として登場、関羽との一騎討ちで互角に戦うも馬が躓き危うく討ち取られそうになるが、関羽は黄忠の武勇を認めてこれを見逃している。これに恩義を感じた黄忠が紆余曲折を経て劉備軍に参じるという筋書きだった。 | ||
関平【SR】 | SR | 逆撃の号令【100%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 40 | 関羽の息子。正史、小説『三国志演義』ほか民間伝承にもその名を残している。『江陵県志』によると、関平は趙雲の娘の趙氏を娶ったという。現代でも関羽を祭った関帝廟の随神・関平帝君として周倉と共に祭られている。 | ||
趙雲【SR】 | SR | 一騎駆け【80-100%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 40 | 蜀の武将。劉備の死後も蜀漢のために忠義を尽くした。諸葛亮の北伐にも参加。街亭の戦いでは曹真軍を引き付ける囮役となるが軍兵をとりまとめてよく守った。この後趙雲はこの功の褒賞を断って諸葛亮を改めて感嘆させたという。 | ||
孫権【SR】 | SR | 江東の号令【80-100%】 | 兵糧|銭|防衛 | 呉 | 40 | 赤壁の戦いの後、劉備との荊州争奪戦では荊州を任されていた関羽が北上した隙をついて荊州を奪い退路を失った関羽を捕らえて処刑した。三年後、復讐に燃える劉備軍を夷陵の戦いで大破し、荊州の領有を確実にした。これによって三国の領域が確定した。 | ||
韓当【SR】 | SR | 真・神速攻勢【80-100%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 40 | 呉の武将。小説『三国志演義』では反董卓連合に参加した孫堅の四将軍の一人として大刀を奮う武将として登場した。孫堅が戦死する直前の場面では孫堅の顔に凶兆が現れていることを伝えている。また赤壁の戦いでは苦肉の計を成功させた黄蓋の命を危機一髪で救った。 | ||
孫堅【SR】 | SR | 江東の虎【80-100%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 40 | 反董卓連合軍に立った群雄の一人。孫堅の勢いに恐れをなした董卓が遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って長安へ逃れると孫堅は洛陽に入った。董卓に荒らされた陵墓を修復するが小説『三国志演義』ではこの時に伝国の玉璽を発見、野心を抱く筋書きとなっている。 | ||
甘寧【SR】 | SR | 武の極致【80-90%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 40 | 小説『三国志演義』では元は錦帆賊と呼ばれ、江湖一帯を荒らしまわった河賊であった。父を殺した事から怨まれていた凌統の危地を救い、旧怨を越えた生死の交わりを結び親交を誓っている。夷陵の戦いで病床の身を押して出陣し劉備配下の沙摩柯の矢を受けて戦死した。 | ||
黄蓋【SR】 | SR | 雷神の槌【60-80%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 40 | 呉家三代にわたって仕えた。小説『三国志演義』では曹操が攻めてきた時におびえる降伏派の文官達を一喝し、諸葛亮を孫権の元に招いた。後に周瑜が駆けつけると彼と共に主戦論を唱えている。周瑜に火攻めを提案して自ら苦肉の計を買って出、曹操を欺くため棒叩きの刑を受けた。 | ||
孫策【SR】 | SR | 小覇王の一撃【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 40 | 父の孫堅の死後、袁術配下となって兵と勢力を奪われ雌伏の日々を送るが期をみて独立。周瑜も軍勢を引連れて合流した。周瑜の情報・智謀もあり、瞬く間に江東に一大勢力を築いている。その後も人材登用を積極的に続け江東の支配体制を盤石なものとした。 | ||
周瑜【SR】 | SR | 孫武の神速陣【80-100%】 | 兵糧|銭|アイテム | 呉 | 40 | 孫策・孫権に仕えた武将。小説『三国志演義』では美男、智勇に優れた青年提督として描写され活躍もしているのだが、結果的に諸葛亮には敵わない引き立て役の役回りとなっている。難題を突き付け諸葛亮を殺そうとしたり、魯粛をいじめたりと狭量な面が強調されていた。 | ||
魯粛【SR】 | SR | 名工の招聘【40-50%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|銭 | 呉 | 40 | 魯粛は西暦217年に死去している。その死に際しては諸葛亮も喪に服したという。小説『三国志演義』ではその温厚な人柄からか諸葛亮の神がかり的な智謀に翻弄される引き立て役となっている。史実では魯粛が提案した策も演義の中では諸葛亮によるものとされていた。 | ||
孫権【SSR】 | SSR | 孫呉の号令【100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 呉 | 50 | 夷陵の戦いで蜀を破った孫権は、直後から黄武という独自の元号を使い始めて魏に抗する姿勢を見せた。この年をもって呉が国家として独立したとされる。劉備死去の翌年に再び呉蜀同盟を結ぶ。諸葛亮の北伐に呼応して自らも侵攻するなど魏に対抗している。 | ||
貂蝉【SR】 | SR | 真・美女連環の計【80-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 漢 | 40 | 美女連環の計で知られる、古代中国史上絶世の美女。元は王允の養女として育つ。董卓の専横政治に憤っていた王允が董卓の暗殺を謀り、その色香で董卓と呂布の仲違いさせるため遣った。計画は成功し、呂布は董卓を襲い斬り殺してしまった。 | ||
董白【SR】 | SR | 生殺与奪【80-100%】 | 兵糧|銭|銭 | 漢 | 40 | 董卓の孫娘。暴虐を尽くした董卓が呂布によって殺されると、王允らの命令によって董卓の一族は三族に至るまでことごとく獄門に送られた。これは一人の罪にしては最大級の刑罰であり、その際に董白も処刑されたとされる。 | ||
袁紹【SR】 | SR | 袁家の威光【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 袁 | 40 | 反董卓に立った群雄の一人。官渡において曹操と対峙する。許攸が曹操のもとへと寝返り、兵糧庫を焼き払われる。兵糧を失い旗色の悪くなった袁紹軍は倉亭の戦いで曹操配下の軍師・程昱の十面埋伏の計に敗れ、冀州へと退却した。 | ||
甄姫【SR】 | SR | 美姫の魅惑【80-100%】 | 銭|銭|銭 | 袁 | 40 | 魏の初代皇帝・曹丕の妻。元は袁煕の妻だった。曹丕の妻となり曹叡と東郷公主を産んだが、後に寵愛が薄れ、曹丕によって自殺を命じられた。郭氏に寵愛が移ったことが原因であったという。後に皇帝となった息子・曹叡によって皇后の位を贈られている。 | ||
田豊【SR】 | SR | 王佐の相【80-100%】 | 兵糧|アイテム|銭|銭 | 袁 | 40 | 官渡の戦いの大敗のあと、田豊の諌めを聞くべきだったと後悔する袁紹に、逢紀は田豊は将軍が敗れたことを笑っていると讒言した。田豊はこのときも自身の死を予言している。果たして田豊は逢紀の讒言を真に受けた袁紹に投獄され、自害した。 | ||
張角【SR】 | SR | 救世の導き【80-100%】 | 兵糧|兵糧 | 他 | 40 | 彼は薪集めの山中で南華老仙という仙人に太平要術の書を授かったという。かねてからの王朝腐敗への憤りからこれを経典として太平道なる道教集団を作り上げ、信者を集めていった。太平道は後に中国三大道教の一つとして数えられることになる。 | ||
韓遂【SR】 | SR | 狡兎三窟【50-60%】 | 銭|防衛 | 他 | 40 | 後漢末期、涼州反乱軍の中核にいた。潼関の戦いで曹操に敗退し馬超と共に涼州へと敗走している。『三国志演義』では賈詡による手紙を用いた離間の計を受け、馬超と仲たがいして殺害されかけるもなんとか叛乱軍を抜けて曹操に帰順している。 | ||
馬騰【SR】 | SR | 威風堂々【85-100%】 | 銭|防衛 | 他 | 40 | 馬超の父であり西涼の群雄。三国志演義では朝廷への忠誠に燃える正義漢として描かれている。朝廷を専横する曹操に義憤して暗殺を計るが、企みが露見して一族ともども皆殺しにされた。その後唯一脱出した馬超が曹操に対して復讐戦を挑むことになる。 | ||
孔融【C】 | C | 荒天予測【50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は文挙。青州魯国曲阜県の人。春秋時代の思想家・儒教の始祖である孔子の二十代目の子孫に当たる。若い時から学問好き、博識で鳴らした。長じて北海太守を務めるが実務では机上の空論が多く結局彼は北海太守の座を追われている。 | ||
魯粛【R】 | R | 職人の保護【20-30%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 呉 | 30 | 呉に仕えた武将・政治家。周瑜は病に倒れると自分の後任として魯粛を指名した。孫権はこれを聞き入れて魯粛を周瑜の後任としている。劉備が蜀を手に入れると荊州の国境付近は緊張が高まるが、魯粛は曹操への対抗の為に劉備と友好を保つように務めている。 | ||
陶謙【C】 | C | 街道の整備【40-50%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は恭祖、揚州丹陽郡の人。後漢に徐州牧を任じられる。陳登・王朝・ 麋竺・張昭・趙彧などの人材確保に精力的だった。劉備一党に対しても好意的で陶謙自身も乱世の群雄としての野心は持っていたが、後に劉備に徐州を譲ることになる。 | ||
甘寧【R】 | R | 武の極み【60-80%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 呉の孫権配下の武将。天下二分の計を進言した戦略眼を孫権に認められ、甘寧は呉の将となって黄祖を打ち破るのに尽力した。捕らえられた恩人の蘇飛の助命を涙ながらに訴えてその義侠心を見せている。その後も曹操との戦いでは周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破った。 | ||
張昭【C】 | C | 街道の整備【40-50%】 | 銭|防衛 | 呉 | 10 | 字は子布、徐州彭城県の人。若い頃から学問に励み、王朗・趙昱と並んで高い名声を得ている。孫策・孫権に仕えると張紘と共に呉の内政面で大きな業績を残した。また学者としても名高く、呉の朝廷儀礼の制度を制定した他にも多くの著作を残している。 | ||
陳珪【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 兵糧|銭 | 漢 | 30 | 袁術と呂布の間を巧みに渡り合った陳珪は曹操と内通することに成功している。 その曹操に大軍をもって呂布を討たせている。戦わずして袁紹軍を壊滅させ呂布をも滅ぼしたその行動は悪賢く狡猾ではあるが、それは全て国や民のためを思った行動であった。 | ||
劉繇【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期の政治家。揚州刺史となった劉繇の下には、太史慈を始め名だたる人物が身を寄せていた。人望はあったが乱世を生き抜ける人物ではなかった。諸葛亮は後に、孫氏に江東を席捲させた人物として名指しで劉繇を批判している。 | ||
陶謙【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 徐州牧を務めた武官。三国志演義では曹操によって自領を略奪され、最後は劉備に国を譲った人物として描かれていた。正史では道義に背いて感情にまかせて行動した暴君として書かれており、筆者の立場により評価が分かれている。 | ||
麋芳【C】 | C | 奇襲の察知【50%】 | 銭 | 蜀 | 10 | 字は子方、徐州東海郡朐県の人。兄麋竺とともに劉備に仕える。劉備放浪時代からの古参の将軍で劉備とは姻戚関係にあったが関羽との折り合いが悪く、関羽を恐れるあまりに蜀を裏切って荊州の本拠地である江陵を明け渡してしまった。 | ||
麋芳【R】 | R | 奇襲の迎撃【100%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 糜芳は関羽を裏切って呉に降ると孫権に迎え入れられている。小説『三国志演義』では、夷陵の戦いで劉備が関羽を殺された怒りで荊州に攻めてくると、糜芳は再び蜀に寝返ろうとして劉備のもとに投降している。劉備は許さず自らの手で麋芳を斬っている。 | ||
劉璋【R】 | R | 疑心暗鬼【40-30%】 | 兵糧|銭|銭 | 漢 | 30 | 後漢末期の動乱期に割拠した群雄。劉焉の四男でその後を継ぎ、益州を治めるが劉備に益州に招き入れると逆に劉備軍に成都を包囲されている。劉備軍の軍師・簡雍の説得を受け成都は戦わずして開城し降伏した。その後劉璋は公安へと送還されている。 | ||
劉璋【C】 | C | 暗君の意地【50-40%】 | 銭|銭 | 漢 | 10 | 字は季玉、荊州江夏郡竟陵の人。後漢末期の動乱期に割拠した群雄の一人ではあるが、乱世を傍観した結果、劉備に蜀を譲ることになった。群臣の反対も聞かずに劉備を益州に誘い入れ、民草までもが望んでいた劉備との決戦の願いを無視し続けた。 | ||
蔡邕【C】 | C | 仁者の鑑【30-40%】 | アイテム|銭 | 漢 | 10 | 字は伯喈、陳留郡圉県の人。後漢末期の政治家・儒学者。若くして博学で鳴らし、算術・天文に精通し音楽にも長けていた。 桓帝の時代に中常侍の推薦を受けるが断っている。以後朝廷との関わりを絶ち古文を研究していたが、やがて橋玄に招聘された。 | ||
蔡邕【R】 | R | 仁者の運命【40-50%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 漢 | 30 | 後漢に仕えた儒学者。当時散逸した儒学の教えや解釈を正すことを上奏して編纂に打ち込んでいる。董卓に推挙された恩を忘れず、董卓が王允らにより殺されると深く悲しんだという。これを知った王允は激怒し、蔡邕を投獄。間もなく処刑されている。 | ||
関平【C】 | C | 逆撃の統率【50%】 | 内政なし | 蜀 | 10 | 軍神・関羽の息子。小説『三国志演義』では関羽の養子として登場するが、正史ではそういった記述はなく実子とされている。西暦219年に関羽の養子軍勢が荊州において曹操・孫権軍と戦った時に父に随行し活躍している。 | ||
孫乾【C】 | C | 謀士の看破【50%】 | 兵糧 | 蜀 | 10 | 字は公祐、北海郡の人。蜀建国の以前から劉備に仕えた功臣。徐州で陶謙に仕えた後にその後任として徐州刺史となった劉備の招聘を受け移籍した。そのまま放浪時代の劉備を支えて外交面で奔走している。劉備の入蜀後すぐ病に倒れて死亡した。 | ||
王朗【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|銭 | 魏 | 30 | 魏に仕えた武将。曹操に招聘された後、魏建国の際に魏郡太守へ任じられて、その後も重職を歴任する。曹操の死去後も曹丕・曹叡に仕えた。『三国志演義』では諸葛亮の北伐の際に、戦場で諸葛亮との論戦に敗れてその場で憤死している。 | ||
呂範【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|アイテム | 呉 | 30 | 呉書では容姿端麗とされる。私生活も派手であったが謹厳実直な勤務態度でもあったため、孫権はそれを咎めなかったという。孫策に囲碁で勝った記録があり、主計だった当時に子供だった孫権が呂範に小遣いを求めるが断固断ったりなどと孫家にまつわるエピソードが多い。 | ||
呂範【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 呉 | 10 | 字は子衡、豫州汝南郡細陽の人。呉に仕えた政治家である。若い頃に県の役人となる。郷里の豪族である劉氏の娘を妻に娶るが、妻の父である劉氏は、呂範の相を見て只者でない人物と見抜いたという。乱を避けて壽春に赴いたところ孫策と出会いその配下となっている。 | ||
陳登【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は元龍、徐州広陵の人。はじめ陶謙配下の武将だったがその死後に徐州牧を引き継いだ劉備に仕えた。後に呂布により徐州が奪われると表面上は呂布に仕えたが陰で曹操と通じ、呂布を徐州から追放するよう画策している。 | ||
麋竺【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|兵糧|アイテム | 蜀 | 30 | 後漢末期から蜀にかけて劉備に仕えた政治家。劉備と苦労を共にし援助を惜しまなかった。劉備は荊州に赴くとき先に麋竺をやって劉表に挨拶させている。劉備の益州平定ののち、麋竺は安漢将軍に任命されるが、この席次は諸葛亮のより上位であった。 | ||
簡雍【R】 | R | 荒天対策【100%】 | 銭 | 蜀 | 10 | 劉備に仕えた古参の文官。劉備が入蜀すると彼も付き従い劉璋にもその人柄を愛でられた。やがて劉備と劉璋が対立したときに降伏を勧める使者として入城した。劉璋は簡雍の説得を受け入れて降伏した。この功から簡雍は昭徳将軍に任ぜらている。 | ||
周倉【R】 | R | 山賊の流儀【20-40%】 | 兵糧 | 蜀 | 30 | 小説『三国志演義』に登場する蜀の武将。元は黄巾の乱に参加した黄巾賊だった。その後山賊に身を落とすが関羽と出会い、同行を許されると以後は常に関羽の付き従って数々の戦場で活躍した。架空の人物であるためか数々の民間伝承を残している。 | ||
徐庶【R】 | R | 大火の計【40-60%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 新野時代の劉備に仕えた軍師だったが母親が魏軍に囚われ、母親思いの徐庶はやむなく魏に下ることになった。後に諸葛亮が魏での徐庶の官位を知り、その能力に見合わない低い官位に魏の有能な人材の多さを羨む逸話が残っている。 | ||
張繍【R】 | R | 危地突破【100%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 魏の武将で曹操・曹丕に仕えた。曹操に帰順した後に曹操は張繍を厚遇している。張繍もそれに応えて官渡の戦いでは奮戦して破姜将軍に昇進した。しかし曹丕の時代には兄殺しの過去を持ち出されて冷遇されたという。 | ||
張勲【R】 | R | 防衛の指揮【100%】 | アイテム|防衛 | 袁 | 30 | 袁術配下の武将。『三国志演義』では袁術軍の都督の一人として登場している。呂布との戦いで二十万の兵を率いる大将軍として第一軍の指揮を担当したものの、呂布軍の猛攻を受けて敗走した。その後は演義には登場せず、姿を消している。 | ||
雷薄【R】 | R | 同業の手口【20-40%】 | 銭 | 袁 | 30 | 袁術配下の武将。『三国志演義』ではまず徐州の呂布討伐に、第四軍副将として出陣するが敗退している。後に袁術の贅沢振りに愛想をつかして陳蘭と共に嵩山に立て篭もった。さらに劉備の討伐で壊滅させられた袁術から財宝と糧食を奪い取っている。 | ||
麹義【R】 | R | 剽悍無比【80-100%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 袁紹軍きっての勇将。界橋の戦いで公孫瓚の誇る親衛隊・白馬義従を追撃の上で撃破したことで知られる。涼州に長らく住んでいた事があり羌族の戦術に精通していた。三国志演義では正史通りの活躍を見せるが、当時公孫瓚配下にあった趙雲に討ち取られている。 | ||
田豊【R】 | R | 周到な統治【60-80%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 袁 | 30 | 袁紹配下の政治家・武将。官渡の戦いでは曹操との戦争に反対して持久策を進言したため沮授ともども投獄される。田豊の能力を知る曹操はこのことを聞いてこれで勝てると喜んだという。田豊の諌めた通り、袁紹は官渡の戦いに大敗することになった。 | ||
張郃【R】 | R | 袁軍の勇将【30-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 魏の武将。後の魏の五将軍の一人。劉備が漢中へと軍をすすめた陽平関を巡る戦いでは夏侯淵が討ち取られ、大将を失った曹操軍は大混乱をきたすが、郭淮が張郃を都督に推挙し他の武将もこれを認めている。張郃は陳倉に駐屯して蜀に備えた。 | ||
淳于瓊【R】 | R | 無類の酒好き【20-40%】 | 銭|防衛 | 袁 | 30 | 袁紹配下の武将。官渡の戦いが勃発し、淳于瓊は兵糧輸送の任務を受けて兵糧の集積地である鳥巣の防備にあたるが、曹操は軍を率いて鳥巣を急襲し、淳于瓊は敵わずに捕縛されている。『三国志演義』では襲撃時に淳于瓊は泥酔しており、反撃もままならず捕虜となる筋書きであった。 | ||
劉岱【R】 | R | 百人がかり【40-50%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操配下の武将。小説『三国志演義』では兗州の刺史であったが黄巾賊の青州侵攻に抗しきれずに敗退、落ち延びた後に曹操の家臣として仕えている。曹操の命で徐州で謀反を起こした劉備を攻撃するが敗北した。 | ||
顔良【R】 | R | 袁紹軍の宿将【30-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 後漢末期、袁紹に仕えた武将。三国志演義では白馬の戦いで魏続と宋憲を討ち取り徐晃を撃退した。狼狽した曹操は当時客将であった関羽を繰り出す。関羽は呂布の遺品であった赤兎馬を駆って敵軍に突入し、顔良は反撃の間もなく討ち取られてしまう。 | ||
沮授【R】 | R | 天を読む采配【30-80%】 | 兵糧|防衛 | 袁 | 30 | 袁紹に仕えた不遇の名参謀。同じく袁紹の参謀・田豊とともに曹操討伐をたびたび諫めるが聞き入れられず投獄される。官渡の戦いでは敗亡を予感し、袁紹が敗れると捕えられ、曹操に帰順を勧められるが拒否した。脱走しようとしてやむなく殺された。 | ||
張曼成【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 南陽黄巾軍の指導者。宛を根拠地として黄巾党の数万の兵を率い、自らを神上使と称した。後任の南陽太守・秦頡に敗北するが彼の死後も部下たちは他の軍勢に流れていくことも無くその後も軍容を維持し続けた。彼の指揮官としての求心力が垣間見える。 | ||
郭図【R】 | R | 内応者の喚起【40-60%】 | 銭|防衛 | 袁 | 30 | 袁紹に幕僚として仕え、袁紹の死後はその長男袁譚に仕えた。官渡の戦いでは進言を聞き入れられず烏巣は陥落、責任の追及を恐れた張郃の寝返りにより袁紹軍は崩壊した。三国志演義では郭図は魏の楽進に射殺されている。 | ||
魏続【R】 | R | 決着はまた後日【60-80%】 | 銭 | 漢 | 30 | 呂布配下の武将。小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の一人として登場する。曹操を後一歩のところまで追い詰めるが典韋に撃退されて後に曹操に降っている。官渡の戦いで宋憲の仇を討とうと顔良に戦いを挑むが、一撃で討ち取られてしまった。 | ||
魏続【C】 | C | 一目散に逃げろ【40-60%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 呂布配下の武将。呂布と縁戚関係にあったことから重用されていた。呂布軍が曹操の猛攻に遭って下邳城に追いつめられると陳宮を捕縛してあっさりと曹操に寝返っている。これにより下邳は落城し、呂布軍は滅亡した。 | ||
曹純【R】 | R | 苛烈な指揮【40-60%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操の精鋭騎兵隊・虎豹騎の指揮官。曹純は虎豹騎を預けられるとよく部下を可愛がり統率したので部下からの信望は厚かったという。曹操は曹純の死後、曹純ほどの指揮官は得られないとして虎豹騎を自ら率いることに決め後任者を選ばなかった。 | ||
王允【C】 | C | 宰相の器【10-20%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は子師、太原郡祁県の人。後漢末期の政治家。呂布と共に董卓を暗殺した人物として知られている。桓帝の時代から漢王朝に仕えた。正義派の官僚として活動したために腐敗した政治の中でしばしば免職や投獄の憂き目を見ている。 | ||
王允【R】 | R | 都の守護者【60-80%】 | 兵糧|銭 | 漢 | 30 | 後漢末期の政治家。朝廷で董卓の専横が進むとこれを憎み、呂布を抱き込んで西暦192年に董卓を暗殺した。小説『三国志演義』では絶世の美女・貂蝉を養女に迎え、これを使って連環の計を謀っている。董卓と呂布の仲を裂くことに成功し董卓を滅ぼした。 | ||
賈詡【C】 | C | 小離間の計【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 字は文和、武威郡姑臧県の人。はじめ後漢に仕え後に魏に仕えた参謀。魏きってのまさに神算鬼謀の謀臣といえる。董卓をはじめ次々に主君を変えるが最後に曹操に仕え、その後は曹操・曹丕の二代にわたって重臣として活躍した。 | ||
賈詡【R】 | R | 離間の計【60-80%】 | 銭 | 魏 | 30 | 魏の参謀。張繍時代には計略によって典韋を討ち取り、曹操を抹殺寸前まで追い詰めた。自らを何度も苦しめたその才能を曹操に買われて後に曹操に仕えることになった。曹操は彼を信頼しており、曹操の後継者は賈詡の一言で決まったという。 | ||
献帝【C】 | C | 天子の巡察【20-30%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 後漢最後の皇帝。霊帝の次子、姓名は劉協。母の王美人は劉協を産むと何氏の嫉妬を受けて毒殺されたという。西暦189年、霊帝が崩御すると何皇后の実子・劉弁が即位した。跡目争いに敗れた劉協は辺境である渤海王に体よく封じられている。 | ||
献帝【R】 | R | 天子の威徳【30-80%】 | 兵糧|兵糧 | 漢 | 30 | 後漢王朝最後の皇帝となる。西暦189年に何進の派閥と宦官の勢力争いの混乱に乗じて董卓が都に入り朝廷の実権を握る。少帝が廃位され弘農王になると代わって献帝が皇帝に擁立された。しかしその安寧は続かずその後も献帝は朝廷の権力争いに巻き込まれ続けた。 | ||
高順【C】 | C | 突撃体勢【40-60%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 呂布軍の誇る猛将の一人で、張遼と並んで重んじられた。義に厚く清廉な人柄で兵士のことを常に気遣い鎧や武器の手入れを徹底していたという。呂布軍の強さは呂布自身の武勇もさることながら、高順の存在も大きかったといえる。 | ||
侯成【C】 | C | 日陰者【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 呂布に仕えた武将。呂布が曹操に追い詰められ下邳城に立て篭ったとき、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こし呂布の参謀・陳宮を捕縛して曹操軍へ寝返っている。これが元で呂布は曹操に降伏し呂布は処刑された。 | ||
侯成【R】 | R | 裏切りの報酬【60-80%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 呂布配下の武将。小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の一人として登場する。曹操との戦いでは魏続らとともに曹操を後一歩まで追い詰めるものの、曹操軍の典韋に撃退されている。その後に呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降伏したのが彼である。 | ||
宋憲【C】 | C | 強行軍の指揮【20-30%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 後漢末期、呂布配下の将。呂布が曹操に追い詰められ下邳城に立て篭ったとき同僚の魏続・侯成と共に反乱を起こす。呂布の参謀陳宮を捕縛して曹操軍へ寝返った。これが基で呂布は曹操に降伏し処刑されている。 | ||
曹豹【C】 | C | 拠点防衛【20-30%】 | 銭 | 漢 | 10 | 曹姓ではあるが曹操の曹一族ではない。元は陶謙の重臣で陶謙の死後に劉備の家臣となった。国相として張飛とともに下邳城を守っていたが張飛とは仲が悪かった。そこを突かれて下邳を奪われてさらには徐州を呂布に奪われている。 | ||
曹豹【R】 | R | 本拠地防衛【60-80%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 劉備配下の武将。小説『三国志演義』では張飛の酒癖の悪さに翻弄されている。恨みに思った曹豹は娘婿の呂布に内通し、張飛への復讐を計画。まんまと張飛を遁走させたが追撃した際に反撃を受けて曹豹は人馬もろとも両断されている。 | ||
張遼【C】 | C | 猛将の襲撃【20-30%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 字は文遠、雁門郡馬邑県の人。後漢末の動乱期に丁原・何進・董卓、さらには呂布に仕え何度も主を失うがその度に滅ぼした側に配下になる事を請われている。最終的には曹操の配下となり軍の指揮官となった。 | ||
臧覇【C】 | C | 勇士の統率【20-40%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 字は宣高、兗州泰山郡華県の人。動乱期に呂布と同盟していた徐州の群雄。呂布の死後は曹操に帰順した。その後は徐州刺史として地方統治を行う一方で、たびたび曹操軍に従軍して戦功を挙げた。後にそれらの功で列侯に採り立てられている。 | ||
貂蝉【R】 | R | 美女連環の計【60-80%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 『三国志演義』に登場する絶世の美女。楊貴妃と並び、古代中国四大美人の一人に数えられている。その美貌と機転で董卓と呂布を仲違いさせて、呂布に董卓を殺させた美女連環の計はあまりにも有名。モデルとなった侍女の記述が正史に残っている。 | ||
廖化【R】 | R | 老巧な指揮【60-80%】 | 兵糧 | 蜀 | 30 | 蜀漢の武将。劉備が荊州を手中にした際に関羽の幕僚長となる。 関羽の最後には密接に関わり、その後の諸葛亮の北伐にも参加した。西暦263年。魏の鄧艾が蜀に攻めてくると姜維・張翼らと共に最後まで抵抗したが成都が陥落したために降伏している。 | ||
馬岱【R】 | R | ここにいるぞ!【60-80%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 蜀の武将。馬超の従弟。『三国志演義』では曹操の馬騰謀殺の時に馬超とともに中央を脱出し羌族の地に逃れている。漢中に攻め込んで来た劉備軍と戦い張飛と対峙するも一蹴される。馬超が劉備に降伏するとそのまま従ってその後は蜀の忠臣として仕えた。 | ||
馬謖【R】 | R | 山頂布陣【65-85%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 蜀の武将。馬謖の才能を愛する諸葛亮は劉備の死後に彼を幕僚に任命した。第一次北伐の際、彼に戦略上の要所である街亭の守備を命じているが、馬謖はこのとき諸葛亮の命に背いて山頂に陣を敷いてしまい、それが元で蜀軍は惨敗することとなる。 | ||
高覧【R】 | R | 敵陣急襲【30-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 小説『三国志演義』では高覧は大いに活躍している。官渡の戦いでは許褚と互角に一騎打ちを繰り広げ、曹操に投降した後は先鋒を務めて袁紹軍を撃破している。倉亭の戦いでは劉備を自害寸前まで追いつめる活躍を見せるが趙雲に馬上から突き落とされ生死不明となった。 | ||
審配【R】 | R | 危地突破【100%】 | 兵糧|防衛 | 袁 | 30 | 袁紹、後に袁尚に仕えた武将。三国志演義でも最後まで袁氏に殉じた忠義の士として描かれている。鄴城が落城し捕えられると袁尚への忠義を貫いて曹操への帰順を拒絶した。審配は主君・袁尚のいる北の方角を向いての斬首を望み、その通りの斬首となった。 | ||
陳琳【R】 | R | 檄文【40-60%】 | 銭|防衛 | 袁 | 30 | 後漢末期に袁紹、後に曹操に仕えた文官。官渡の戦いで陳琳は曹操打倒を呼びかける檄文を書く。後にその文才と降ったときの悪びれない態度を気に入られてその後は曹操に仕えた。曹操の元では様々な文書の作成に携わり建安七子の一人と称されている。 | ||
袁煕【R】 | R | 名門の残照【50-60%】 | アイテム|防衛 | 袁 | 30 | 袁紹の次子で幽州刺史。袁紹の死後、激しく後継者争いを行う兄弟の緩衝材にはなれなかった。弟・袁尚が曹操に敗れ幽州に落ち延びて来た際は、肉親の情が打算に勝ったのか領地に迎えたが、反発する家臣の離反を招き曹操軍に追われ烏丸へと逃げ延びた。最期は遼東の公孫康に欺かれ処刑された。 | ||
郭汜【R】 | R | 西涼の暴れん坊【60-80%】 | 銭 | 漢 | 30 | 董卓配下の猛将。董卓亡き後に献帝を擁立し郭汜と共に政治を専横する。しかし幼馴染である同僚の李傕と争い、献帝が長安を脱出した後は勢力は衰退。長安を追われ部下に裏切られて殺された。その首は曹操のもとへ送られたという。 | ||
胡車児【C】 | C | 走者陶酔【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 後漢末期、張繍配下で随一の武勇を誇った武将。張繍が曹操に降伏した際に、曹操からその武勇を評価されて黄金を与えられている。しかしその話を聞いた張繍が自分を暗殺するため胡車児を引き込んでいると考え、曹操への謀反を決意したという。 | ||
胡車児【R】 | R | 真・走者陶酔【60-80%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 張繍配下の勇将。姓が胡で名前が二文字である事から西域のペルシャ系の人物だったのではと思われる。『三国志演義』では西域の異民族出身で、五百斤の荷物を背負い日に七百里歩く剛力の持ち主として登場する。張繍の謀反に加担し、典韋を討ち取っている。 | ||
江東の二喬【SSR】 | SSR | 月花の慈愛【65-75%】 | 兵糧|兵糧|銭|銭 | 呉 | 99 | それぞれ孫策、周瑜を夫に持つ美人姉妹。その美貌の前では花も恥じらうと言われ、江東の二喬と称された。彼女達の祈りが加護となり、呉の武将達は無事に戦場から戻ることができたという。 | ||
趙雲【SSR】 | SSR | 子龍の檄【100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀漢に仕えた宿将。小説『三国志演義』では数々の一騎打ちを演じ多くの敵将を討ち取り、もしくは退けている。そのほとんどが槍による一突きで仕留めたと記されている。特に魏の夏侯恩を討ち取った際には曹操が授与した青紅剣を奪っている。 | ||
鄧茂【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 小説『三国志演義』に登場する架空の人物。幽州の黄巾賊・程遠志配下の黄巾賊の頭目の1人だった。横山光輝の『三国志』でも劉備の義勇軍の緒戦の相手として登場。対戦相手は『三国志演義』とは違い関羽であったがここでも瞬殺されている。 | ||
諸葛瑾【R】 | R | 諸葛の血筋【60-80%】 | 兵糧|銭 | 呉 | 30 | 呉の政治家・武将。弟の諸葛亮は劉備陣営におり、互いに使者に発つことも多く、諸葛瑾の呉への忠誠心を疑われることも少なくはなかった。しかし孫権は子瑜が私を裏切らないのは私が子瑜を裏切らないのと同じことであると言い、全く取り合わなかったという。 | ||
田豊【C】 | C | 周到な経営【40-50%】 | 兵糧|アイテム | 袁 | 10 | 字は元皓。冀州鉅鹿郡の出身とも、また勃海郡の出身ともいわれる。後漢時代末期の政治家・武将。始めは中央で仕官したが朝廷での宦官たちの専横を見て朝廷に嫌気がさし、官職を辞して郷里に引き上げた。その後、袁紹の参謀として仕えている。 | ||
鍾繇【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 魏 | 10 | 字は元常、豫州穎川郡長社県の人。曹操配下の内政家だが書家としても一流で、現代まで鐘繇体という書体名にその名を残している。小説『三国志演義』では実子の鍾会と比べられ引き立て役に甘んじているが、正史では仁政を心がけて左遷の身から車騎将軍にまでになった人物である。 | ||
虞翻【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 呉 | 10 | 字は仲翔、揚州会稽郡余姚県の人。はじめは王朗の下で働く。王朗が孫策に敗れるとあくまで王朗に付き従おうとするがやがて孫策に招かれた。孫策の乗馬して狩猟する趣味を暗殺の危険があることを理由に諌めている。その懸念は後に現実のものとなった。 | ||
袁術【C】 | C | 無軌道な君主【50-40%】 | 兵糧|銭 | 袁 | 10 | 後漢末期の武将・政治家。後に仲を建国、初代皇帝を自称する。董卓による動乱の中で名乗りを上げた群雄の一人。反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて袁紹と抗争を繰り広げるが曹操・袁紹らに大敗し揚州へと退却。寿春を本拠とした。 | ||
袁術【R】 | R | 偽皇帝の虚栄【40-30%】 | 兵糧|銭|銭 | 袁 | 30 | 後漢末期の動乱期における群雄の一人。揚州で支配領域を広げ西暦197年、袁術は寿春を都とし仲を建国し皇帝を自称した。しかし盟を結んだ呂布が討たれると曹操からの攻撃を受け敗退、逃亡した。その途で吐血して死亡している。 | ||
韓玄【R】 | R | 人心慰撫【60-80%】 | 銭|防衛 | 他 | 30 | 小説『三国志演義』では長沙の太守として登場、悪逆非道な君主として描かれている。荊州平定をめざす劉備軍に対して黄忠を向かわせるが、その黄忠が裏切ろうとしていると勘繰り処刑を命じて客将だった魏延に逆に討たれている。首は黄忠によって手厚く葬られた。 | ||
大喬【R】 | R | 悲哀の祈り【20-40%】 | 兵糧|兵糧 | 呉 | 30 | 孫策の妻で小喬の姉。京劇では喬靚という名で登場する。姉妹で江東の二喬と呼ばれた絶世の美女。妹の小喬と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり孫策の妻の一人に加えられた。奇しくも周瑜の妻となった小喬と同じく夫が早逝し、その後の消息は不明である。 | ||
張任【R】 | R | 落鳳破の襲撃【30-80%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 劉璋配下の宿将。金雁橋の戦いで劉備に捕えられた後、劉備は張任の忠義と武勇を高く評価して何度も臣従を勧めたが、張任は老臣は決して二君に仕えるつもりはないと言い決して降る事がなかった。そのため最期には首を刎ねられている。 | ||
孫堅【R】 | R | 孫子の兵法【30-80%】 | 兵糧 | 呉 | 30 | 三国時代に割拠した群雄の一人。西暦184年黄巾の乱の鎮圧で数々の勝利を積み重ねて人材や実戦の経験も豊富となった孫堅軍は反董卓連合軍に参加、正面切っての戦闘を避ける連合軍の中で奮戦し陽人の戦いで大勝、董卓配下の華雄の首を挙げる戦果を挙げた。 | ||
張譲【C】 | C | 真摯な説得【20-30%】 | 銭|銭 | 漢 | 10 | 後漢末期、霊帝の寵愛を受け、絶大な権勢を振るった「十常侍」と呼ばれる宦官の集団が存在した。中でも張讓は霊帝に「わが父」とまで呼ばれていた。彼等は全員列侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させる等、栄華をほしいままにしたという。 | ||
張譲【R】 | R | 巧妙な扇動【30-40%】 | 銭|銭|銭 | 漢 | 30 | 宦官集団「十常侍」の中心人物。霊帝の寵愛を受け絶大な権勢を持っていた。民から財を搾取し、その横暴に漢王室の将来を憂う者も少なくなかったが、多くの者は恨まれることを恐れ見てみぬふりをせざるを得なかったという。 | ||
段珪【R】 | R | 断固たる殺意【40-50%】 | 銭|銭|銭 | 漢 | 30 | 189年、霊帝が没すると十常侍は外戚の大将軍何進と対立関係となった。何進が軍を中央に集めて宦官誅殺を図ると、段珪はその先手を打ち畢嵐と共に兵を率い、何進を誘き出して暗殺した。 | ||
曹節【R】 | R | 狂気なる使命感【70-80%】 | 銭|銭|銭 | 漢 | 30 | 『三国志演義』では十常侍の1人として外戚である大将軍・何進と権力を争った。霊帝崩御後に何進の殺害には成功したが、これに激怒した袁紹によって宦官の誅殺が実行され、混乱に乗じ曹節は少帝と陳留王を連れ宮中から脱出した。その後の曹節を知るものは誰もいない。 | ||
段珪【C】 | C | 断固たる決意【20-30%】 | 銭|銭 | 漢 | 10 | 趙忠、張譲らと共に霊帝の寵愛を受け、権勢を振るっていた宦官集団「十常侍」の一人。宦官が皇帝と密着した関係となれたのは、宦官となるために去勢をする必要があることから世襲ができず、権力が分散する心配をしなくてもよかったためと言われている。 | ||
曹節【C】 | C | 強固たる使命感【60-70%】 | 銭|銭 | 漢 | 10 | 字は漢豊。『三国志演義』では宦官・十常侍に名を連ね専横を行った中常侍の一人。正史では清廉を旨とする外戚の大将軍・竇武と清流派の士人を束ねる陳蕃が反逆した際、逆賊の汚名を着せて辺境帰りの将軍・張奐に命じて竇武を自殺に追い込み、陳蕃を殺害した。 | ||
趙忠【R】 | R | 裏金調達【60-80%】 | 銭|銭|銭 | 漢 | 30 | 自らの持つ権力を利用して私腹を肥やし、国を堕落の道へと誘う趙忠であったが、184年に起きた黄巾の乱の原因であると弾劾された時は、自ら官を辞し、家財を売り払い乱を治めるための軍備へと充てたため、逆にそのことを知った霊帝の信用を深く得る結果となった。 | ||
趙忠【C】 | C | 資金調達【40-50%】 | 銭|銭 | 漢 | 10 | 時の皇帝・霊帝より「わが母」と呼ばれる程の寵愛を受けた、宦官集団「十常侍」の中心人物。宦官とは刑罰の結果として後宮に仕えるようになったことが始まりとされているが、趙忠のように能力の高い者は皇帝に重用されるようになっていった。 | ||
許攸【R】 | R | 果て無き欲望【40-50%】 | 銭 | 袁 | 30 | 袁紹軍の兵糧庫である烏巣の守備が手薄であり、ここに奇襲をかけるよう進言。これが決め手となって官渡の戦いは曹操が勝利を収めた。しかし許攸はその功績に驕り事あるごとに自慢したため曹操の嫌悪を受け処刑された。 | ||
荀彧【SR】 | SR | 人材の推挙【80-100%】 | 兵糧|アイテム|銭|銭 | 魏 | 40 | 若くして曹操に仕えその覇業を支えた続けた軍師。荀彧は漢王朝を想う気持ちが人一倍に強く、曹操が献帝を蔑ろにして自身の栄達を望むようになると次第に曹操と対立するようになった。そのために晩年は不遇だったという。 | ||
卞夫人【R】 | R | 二胡の音色【20-40%】 | 兵糧|兵糧 | 魏 | 30 | 卞氏、徐州琅邪郡開陽県の人、曹丕・曹彰・曹植の実母。曹操の三人目の正室。元は歌妓であったが曹操に見初められて側室となり、丁夫人が廃されると正室となった。思いやり深い人物で実子である曹丕らに限らず、息子たちの異母兄弟も我が子同様に養育した。 | ||
夏侯惇【C】 | C | 猛将の統率【40-60%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 字は元譲、豫州の沛国?県の人。曹操の父・曹嵩の甥にあたり、曹操と夏侯淵の従兄弟にあたる。曹操の旗揚げ時からの古参の武将であり、曹操の覇業を助け、魏王・曹操の最後の刻まで付き従った。清廉な人柄で知られており、部下や領民にも慕われていたという。 | ||
夏侯惇【R】 | R | 魏軍の猛将【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 30 | 曹操の腹心として挙兵時から行動を共にした曹操四天王の筆頭。呂布討伐戦で左眼に流れ矢が当たり隻眼となる。このことから、同族の夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。本人はそれを後々も気にしており、鏡で自分の顔を見るたびに憤激しこれを割ったという。 | ||
韓浩【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 魏 | 10 | 曹操配下の武将。元は袁紹配下の武将だったが夏侯惇の推挙を受けて曹操に仕えるようになった。武勇だけでなく知略にも優れ、曹操に屯田制を進言したことでも知られている。漢中の張魯討伐戦にも参加するなど、曹操の元で数多くの功績を上げている。 | ||
韓浩【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 30 | 曹操配下の武将。武勇だけでなく知略にも優れた彼の死を曹操は惜しんだという。小説『三国志演義』では夏侯惇の副将として新野の劉備を攻めるが、諸葛亮に火計を謀られて敗北。次いで定軍山では黄忠の返り討ちに会って討ち取られるなどなど引き立て役の感が強い。 | ||
朱霊【C】 | C | 忠義の芽生え【20-30%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 字は文博、冀州清河国?県の人。曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた歴戦の将軍である。初めは袁紹の配下だったが曹操の徐州の陶謙討伐の際に援軍に赴いている。戦闘終了ののち他の武将たちは帰還したが朱霊は曹操の器量に惚れ込み、そのまま仕えることになった。 | ||
朱霊【R】 | R | 薔薇の忠義【30-80%】 | アイテム|防衛 | 魏 | 30 | 曹操・曹丕・曹叡の魏の三代に仕えた武将。曹操の下では冀州の兵を統括し、対馬超、張魯討伐などに従軍。曹操の死後も曹丕・曹叡の代まで忠義を貫いて後には後将軍にまで昇っている。朱霊は曹操を二つと無い主君と惚れぬいていたが曹操は何故か朱霊のことを嫌っていたという。 | ||
曹休【R】 | R | 虎豹騎の指揮【65-85%】 | 兵糧 | 魏 | 30 | 曹一族の武将。叔父の曹純の死後、曹操直属の部隊である虎豹騎を曹真と共に指揮している。漢中で張飛らが率いる劉備軍の侵攻を撃退するなど数々の戦功を立てる。魏の建国後も数々の将軍職を歴任し、現在の国防長官にあたる大司馬にまで昇進している。 | ||
王粲【C】 | C | 特技なし | アイテム | 魏 | 10 | 字は仲宣、兗州山陽郡高平県の出身。後漢末期を代表する文学者・学者・政治家。曽祖父の王龔と祖父の王暢は漢王朝において三公を務めている。はじめは劉表に仕えのちに曹操に仕えることとなった。文人としても名を残したため建安七子の一人に数えられる。 | ||
王粲【R】 | R | 人参食うかね?【20-40%】 | アイテム|銭 | 魏 | 30 | 後漢末期の文学者・学者・政治家。魏に仕えた文官。建安七子の一人に数えられている。曹操が荊州を征したときに仕えることとなった。曹操は劉表とは一転して王粲を厚遇し、魏の儀礼制度を制定するときには王粲にその責任者を任せたという。 | ||
徐晃【R】 | R | 会敵回避【40-50%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操が楊奉を討伐し曹操に帰順した徐晃は、呂布討伐や官渡・赤壁の戦いなど数々の戦において多大な功績を挙げている。樊城の戦いにおいては関羽により包囲された曹仁と龐悳の救援に向かい、関羽軍の撃退に成功した。整然とした徐晃軍を見た曹操はその軍容を褒め称えたという。 | ||
満寵【C】 | C | 守勢の統率【50%】 | 防衛 | 魏 | 10 | 字は伯寧、兗州山陽郡昌邑県の人。曹操から曹芳まで四代に渡って仕えた文官。公明正大で法に厳しかったが傲慢ではなく人に疎まれることは無かったという。武門にも秀でており、赤壁の戦いののち曹仁と共に激戦地の荊州に駐屯して対蜀、対呉の戦線を長年に渡って支え続けた。 | ||
満寵【R】 | R | 守勢の指揮【100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 30 | 文武共に秀でていたために老年になるまで最前線の勤務を任されていた。小説『三国志演義』では劉曄の推挙により曹操に仕えている。楊奉配下の徐晃を良いりんごは木を選ぶという例え話を用いて曹操へ帰順させるなど、弁舌の巧みな文官という描かれ方がされている。 | ||
劉曄【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 銭|防衛 | 魏 | 30 | 字は子揚、淮南郡成悳県の人。後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延の子孫に当たる王族系の名門の出身であった。曹操にその才を認められ腹心の任務を授けられるようになった劉曄は数々の献策を行いその覇業を助けている。曹丕・曹叡の代も重用された。 | ||
荀彧【SSR】 | SSR | 唯才推挙【100%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭|銭 | 魏 | 50 | 後漢王朝に対する憐憫の情から次第に曹操と対立するようになった荀彧は、曹操が九錫の礼物を受けて国公となることを曹操の腹心の中では唯一反対した。西暦212年、曹操の孫権征伐に随行したさいに病を患って寿春に残留、死去している。 | ||
小喬【R】 | R | 安息の祈り【40-60%】 | 銭|銭 | 呉 | 30 | 正史では小橋とも。呉を代表する参謀・周瑜の正妻。喬公の娘で大喬の妹にあたる。姉の大喬と共に大変な美女であったという。孫策が周瑜に対して我々の妻は確かに美女だが、我等を夫にできる彼女たちも幸せであろうと語ったという逸話が残っている。 | ||
祖茂【R】 | R | 決死の逃走【30-40%】 | 銭 | 呉 | 30 | 小説『三国志演義』では字は大栄、呉郡富春県の人となっている。孫堅配下の二刀流の使い手として登場。董卓軍に大敗した孫堅の囮役を買って出るのは史実と同様だが、敵をひきつける事に成功するも追手の董卓配下の勇将・華雄に返り討ちにあい討ち取られている。 | ||
黄蓋【R】 | R | 気合の一撃【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 孫堅・孫策・孫権の三代にわたって仕えた宿将。孫権配下の赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操軍を火攻めにすることを進言した。自ら投降と偽って曹操の軍に侵入し、艦船や軍営を焼き払う。曹操軍は敗走し赤壁の戦いは呉の勝利に終わった。この時に負傷するが韓当に救われている。 | ||
虞翻【R】 | R | 農業指南【60-80%】 | 兵糧|銭 | 呉 | 30 | 呉の政治家。孫策の死後は孫権に仕えた。虞翻は直言の士で自分が正しいと思ったことを押し通し、他者への配慮に欠けるところがあったという。酒の席での失敗も何度かあり、最終的には孫権に遠ざけられ交州に左遷されてその地で生涯を終えている。 | ||
周泰【R】 | R | 不壊金剛【30-60%】 | 防衛|防衛 | 呉 | 30 | 小説『三国志演義』では海賊の出自となり、悪事を働くものの改心して孫策の陣営に駆けつけ江東戦で活躍している。この働きで孫策に取りたてられた。後の夷陵の戦いでは陸遜の計略で呉が大勝すると、敗走する蜀軍を諸将と共に追撃し沙摩柯を一騎打ちで討ち取っている。 | ||
蒋欽【R】 | R | 奇襲の迎撃【100%】 | アイテム | 呉 | 30 | 孫策・孫権に仕えた武将。小説『三国志演義』では、孫堅にかつて討伐された河賊の生き残りの出自となっている。旧怨を水に流し孫堅の遺児である孫策のために蒋欽が尽力するという描かれ方をされている。後の関羽包囲戦にも参加しているが、死の描写は描かれていない。 | ||
孫権【C】 | C | 江東の慧眼【20-30%】 | 防衛 | 呉 | 10 | 字は仲謀、呉の初代皇帝。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中では最も長命した。呉の礎を築いた父孫堅、兄孫策を相次いで亡くし若干十九歳で孫氏軍閥の当主となると、父や兄から引き継いだ家臣団をまとめあげて兄の遺志を継いでゆく。 | ||
潘璋【R】 | R | 守銭奴の意地【80-100%】 | 銭 | 呉 | 30 | 孫権配下の武将。関羽討伐戦、夷陵の戦いや魏との最前線で功績を上げ、孫権が皇帝になると右将軍に出世した。関羽を討った武将で、小説『三国志演義』では青龍偃月刀を褒美として貰うがそれが目印になり敵討ちに燃える関羽の息子・関興に討ち取られている。 | ||
董襲【R】 | R | 全部持ってけ!【20-40%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 孫策・孫権に仕えた武将。小説『三国志演義』では孫策に歯向かった厳白虎の首を持参して仕官を申し出ている。その際、親友の虞翻を孫策に推挙する。その後、孫権を守って負傷した周泰を名医の華佗を推挙して看病させている。その最後は史実と同様の描写であった。 | ||
朱桓【R】 | R | 包囲奇襲攻撃【40-50%】 | アイテム|防衛 | 呉 | 30 | 呉の孫権に仕えた武将。山越統治や魏との抗争で武功を挙げた。目だった功績は無いがその戦術は巧みで、特に少数の軍勢で大軍に相対することを得意としており、魏軍は朱桓の軍を非常に恐れたという。また、荊州の魏との境界では曹仁と幾度も戦い防いでいる。 | ||
諸葛瑾【SR】 | SR | 主君の右腕【80-100%】 | 兵糧|アイテム|銭|銭 | 呉 | 40 | 諸葛亮孔明の兄にあたる呉に仕えた政治家・武将。諸葛瑾は風格は堂々としていたが思慮深い上に人当たりが良く、そのため周囲の評判は良かったという。主君・孫権の性格も良くつかんでおりいつも諭すように取り成していた。そのため孫権は彼を特に重用していた。 | ||
闞沢【R】 | R | 虚報の流布【60-80%】 | 兵糧 | 呉 | 30 | 小説『三国志演義』では呉の参謀として登場。赤壁の戦いでは曹操のもとに赴き、曹操を説き伏せて苦肉の計を成功させている。さらに夷陵の戦いでは相次ぐ敗戦にうろたえる孫権に対し、陸遜を大都督に任命するよう推挙した。弁舌に優れた軍師の役回りであった。 | ||
孫桓【C】 | C | 火計【20-30%】 | 内政なし | 呉 | 10 | 字は叔武。呉に仕えた武将で呉の皇族の一人。父の孫河が孫策に気に入られて孫姓を与えられ皇族になったとされている。陸遜とともに荊州で蜀の侵攻の防御にあたった。夷陵の戦いでは孫桓自らが武器をふるって戦い抜き、劉備を敗走させている。 | ||
孫桓【R】 | R | 大火の計【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 呉に仕えた武将で呉の皇族の一人。小説『三国志演義』では夷陵の戦いの場面で登場している。史実と同じく劉備の迎撃の任務を任される。関興らに配下の三人の猛将を討ち取られ苦戦するが、夷陵城を良く守り、大都督・陸遜の着陣まで持ちこたえている。 | ||
[奸雄]曹操【C】 | C | 曹家の無頼漢【20-30%】 | 兵糧 | 魏 | 10 | 字は孟徳。幼名は阿瞞。祖父は皇帝4人に仕えた宦官で大長秋・曹騰。父の曹嵩は曹騰の養子。若い頃から群を抜いた智謀と武勇を持っていたが放蕩児として知られ世間からの評価は低かった。後に人物鑑定家・許子将から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評され世間から注目されるようになった。 | ||
[奸雄]曹操【R】 | R | 奸智の統率【30-80%】 | 兵糧|銭 | 魏 | 30 | 二十歳で孝廉により推挙された曹操は洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。黄巾討伐では騎都尉として武勲を立て、その功績から霊帝の親衛軍「西園八校尉」の指揮官に選ばれた。台頭した暴君・董卓の暗殺に失敗した際は、郷里の譙県に戻って反董卓を掲げ挙兵し諸侯に決起するよう檄を飛ばした。 | ||
甘夫人【R】 | R | 二胡の音色【40-60%】 | 兵糧|兵糧 | 蜀 | 30 | 甘皇后とも。劉備の妻の一人で蜀の第二皇帝になる劉禅の生母である。第二夫人ではあるが劉備が最も長く連れ添っていたため、信頼され奥を取り仕切っていたという。劉備の逃避行中に亡くなり南郡で埋葬されるが、後に諸葛亮によって昭烈皇后の諡(おくりな)を贈られ劉備と合葬された。 | ||
孫乾【R】 | R | 謀士の反計【100%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 蜀建国以前の劉備を支えた功臣。小説『三国志演義』では劉備に徐州を譲るとき、劉備を補佐する人材として陶謙自らが孫乾を推挙する筋書きとなっている。文官・外交官として正史以上の活躍を見せ、関羽や趙雲・張飛の助言役としても活躍している。 | ||
麋夫人【R】 | R | 慈愛の祈り【40-50%】 | 兵糧|兵糧 | 蜀 | 30 | 徐州東海郡朐県の人。劉備の側室。劉備のために尽くした献身的な妻であり自らを犠牲にして幼い阿斗、後の劉禅を趙雲に託した。同じく劉備に仕えた麋竺の妹で放浪の身の夫を良く支えていた。慎み深い性格で正妻の甘夫人とも非常に仲が良かったという。 | ||
諸葛亮【R】 | R | 臥竜出廬【60-80%】 | 銭|アイテム|兵糧 | 蜀 | 30 | 字は孔明、琅耶陽都の人。中国、三国時代の蜀の宰相で劉備・劉禅を補佐し蜀の建国と維持に尽くした。知謀に秀でた天才軍師として一介の傭兵隊長であった劉備を瞬く間に中国を三分した一国、蜀漢の建国へと導いた人物として知られる。 | ||
関平【R】 | R | 逆撃の指揮【100%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 小説『三国志演義』では関平は河北の住人である関定の次男として登場し、劉備のとりなしで子のいない関羽の養子となる筋書きである。似た境遇である劉備の養子・劉封と行動をともにする場面が多かった。 | ||
馬良【R】 | R | 白眉の冴え【60-80%】 | アイテム|銭 | 蜀 | 30 | 蜀の政治家。劉備に仕えた。劉備が蜀漢の皇帝となると侍中に任命され、関羽の弔い合戦に劉備が自ら出兵するとそれに従軍する。劉備が夷陵で陸遜に大敗を喫し、乱戦の最中に懐柔していたはずの異民族の手にかかって戦死した。 | ||
敬哀皇后【R】 | R | 領民の守護【60-80%】 | アイテム|アイテム | 蜀 | 30 | 諱(いみな)は伝わっておらず、諡(おくりな)で敬哀皇后と呼ばれる。張飛の娘。蜀漢の皇帝・劉禅の正室、後に皇后となる。劉禅に輿入れしたが、劉家と張飛の張家との政略結婚だったようだ。しかし早世したので続いて妹の張皇后が輿入れすることとなった。 | ||
姜維【R】 | R | 臥龍継承【5-10%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 蜀の武将。蜀に降った姜維は諸葛亮のもとで重職を歴任する。諸葛亮没後、後を継いだ蒋琬は姜維に北方の守りを任せた。西暦249年に魏で司馬懿の政変が起こると、姜維はこれを機に諸葛亮の遺志である北伐を再開しようとする。 | ||
張松【R】 | R | 喝破【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 蜀 | 30 | 劉璋に仕えた政治家。『三国志演義』では曹操への使者として赴いた際に軽んじられた恨みから劉備の入蜀の手引きを決意したとされている。史実同様に計画が兄に露見し密告により処刑された。張松は処刑の際、兄には大望が見えないのかと嘆いたという。 | ||
法正【R】 | R | 憂国の大志【20-30%】 | アイテム|防衛|防衛 | 蜀 | 30 | 劉備に仕えた謀臣。劉備の入蜀で功績を挙げ、蜀郡太守に任じられると成都の統治と作戦立案を任された。漢中の戦いでは囮を使い夏侯淵を誘引し黄忠に攻撃させている。この采配は的中し夏侯淵を討ちとるなど劉備軍の勝利に大いに貢献している。 | ||
李厳【R】 | R | 商業改革【60-80%】 | 銭 | 蜀 | 30 | 蜀の政治家・武将。劉備の入蜀時に劉備に仕えた。『三国志演義』では劉璋配下のおり劉備軍の黄忠と互角に戦う武を見せている。諸葛亮に包囲され降伏ののち費観を説得して綿竹関を解放した。諸葛亮から呉の陸遜と互角の人物と評されている。 | ||
鄧芝【R】 | R | 真・同盟締結【40-60%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 30 | 蜀に仕えた武将・政治家。外交官として蜀と呉の同盟締結に功績を残している。また一方では戦線での働きもあり、趙雲の副将についたり諸葛亮に付き従っていた。諸葛亮の死後は前軍師前将軍となり、さらに大将軍に進んでいる。 | ||
[祭]諸葛亮 | SP | 臥龍の宴【35%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 蜀 | 1 | 「三国志祭」は神戸で行われている「三国志」を中心としたお祭り。神戸市には三国志の武将・関羽を祭った「関帝廟」や「南京町」などもあり、他の日本における三国志に関する作品なども含めた総合的なお祭りとして開催されている。 | ||
華歆【C】 | C | 信義公平【30-40%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は子魚、青州平原郡高唐県の人。後漢時代は予章の太守だった。孫策に仕えたのちに魏の曹操の家臣となる。小説『三国志演義』では曹操の死後、献帝に皇帝の位を譲るように強要して曹丕を即位させた人物となっている。 | ||
華歆【R】 | R | 朝廷の威【40-50%】 | 兵糧|アイテム | 魏 | 30 | 魏の政治家。元は孫策の配下だったが、呉の使者として赴いた先で曹操の配下となる。魏建国後は御史大夫、司徒を歴任。小説『三国志演義』では皇帝や皇后に狼藉を働く悪人として、正史では清廉な人格者として描かれており評価の分かれる人物である。 | ||
黄祖【R】 | R | 太守の指揮【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 劉表配下の武将。孫権が江夏郡に攻めて来たとき、その猛攻にあって城は落城した。黄祖は身一つで逃亡したが孫権軍の騎兵である馮則に首を斬られ死亡した。三国志演義では元配下であった甘寧に斬られたことにされている。 | ||
公孫瓚【R】 | R | 真・白馬義従【30-80%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期の動乱期に割拠(かっきょ)した群雄の一人。白馬に乗せた精兵を率い武勇に優れていたことから白馬将軍と呼ばれた。小説『三国志演義』では旧知の劉備を援助したり、反董卓連合に参加するなど正史には無い描かれかたをされている。 | ||
蔡文姫【R】 | R | 胡笳十八拍【60-80%】 | アイテム|アイテム | 漢 | 30 | 姓が蔡、名が琰、字が文姫。兗州陳留郡圉県の人。後漢末期から三国時代魏にかけての詩人。音楽にも精通した才女、文学家として知られている。混迷の時代、自らの波乱の人生をつづった胡笳十八拍は中国古典の名曲の一つとされた。 | ||
鄒氏【R】 | R | 妖女の魅力【60-80%】 | 防衛|防衛 | 漢 | 30 | 董卓軍の武将・張済の妻。張済の死後は彼の甥・張繍の元に身を寄せる。絶世の美女だったという。宛城に駐屯した曹操は鄒氏に一目で心を奪われ、側妾にして毎夜ともにすごした。これに気が付いた張繍は大いに怒り曹操に叛逆している。 | ||
文聘【C】 | C | 人心慰撫【20-30%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 字は仲業、荊州南陽郡の人。はじめは劉表に仕えてその後は曹操に仕えた。劉表の死後に曹操が荊州征討の軍を動かすと劉表の子・劉琮は降伏することを決断。文聘にも降伏するよう命令するが文聘はついにこれに応じなかった。 | ||
文聘【R】 | R | 守城の指揮【60-80%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 30 | 劉琮が降伏し、曹操の前に引き出されると文聘は慟哭の涙を流した。曹操はその旧主に対する忠義に感嘆して文聘を厚く遇している。以降は曹操に仕えて数十年の長きに渡って江夏を守備し続け、江夏はついに陥落することはなかった。 | ||
劉表【R】 | R | 荊州の守護者【60-80%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 漢末の混乱期に荊州に割拠した群雄の一人。荊州に入ると地元豪族を懐柔し優秀な人材を集めて広大な領土の統治に力を注いでいる。守勢の人ではあったが群雄割拠の中、荊州を大過無くまとめあげ次代に渡した。庶子の劉琮が家督を継いでいる。 | ||
呉蘭【C】 | C | 守勢の統率【50%】 | 内政なし | 漢 | 10 | 後漢末期の劉備配下の将。元は劉璋の配下だったが劉備入蜀の際に帰順した。劉備の漢中攻略戦で呉蘭は下弁の攻略を命じられるが曹洪に計略を看破され軍は壊滅。呉蘭は強端に襲撃されて討たれた。その首は曹操の元へ送られたという。 | ||
呉蘭【R】 | R | 守勢の指揮【100%】 | 兵糧 | 漢 | 30 | 劉備配下の武将。『三国志演義』では劉璋配下で劉備の入蜀の際、呉懿のもとへ救援に駆け付け冷苞を救出しようとするがそこで敗退して劉備に帰順している。また下弁での合戦では、強端にでは無く曹彰によって討たれたことになっている。 | ||
張任【C】 | C | 隠密行動【20-30%】 | 防衛 | 漢 | 10 | 後漢末期、劉璋配下の武将。元々は貧しい家の出だったが文武に優れ、益州の従事となる。荊州を支配していた劉備が益州に攻め込んでくると劉備の軍を迎え撃つが打ち破られ、雒城に篭城するものの再び劉備の軍に敗れて捕虜となる。 | ||
王朗【C】 | C | 稲作指導【40-50%】 | 兵糧 | 漢 | 10 | 字は景興、徐州東海郡郯県の人。孫娘が司馬昭に嫁いでおり、司馬炎の曽祖父にも当たる。後漢の会稽太守を務めていたが会稽に進出しようとする孫策に敗れる。王朗はその地で名声があったため処刑されずに追放された、後に魏へと仕えた。 | ||
郭汜【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 漢 | 10 | 字は阿多、涼州の人。董卓配下の猛将で、武勇に秀でていた事から董卓の信任を得た。反董卓連合軍が結成された際には牛輔に従い反董卓連合軍側についた朱儁を緒戦で破ると共に、陳留や潁川地方を荒らしまわったとされる。 | ||
劉焉【C】 | C | 独立独歩【50-60%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は君郎、江夏郡竟陵県の人。前漢の魯恭王の末裔にあたる貴種といわれる。後漢末の動乱期において各地に割拠した群雄の一人。益州へ地方官として赴任するが、そのままその地で独立勢力を築いている。その勢力は三国時代の蜀漢の先駆けとなった。 | ||
劉焉【R】 | R | 益州の守護者【80-100%】 | 銭|防衛 | 漢 | 30 | 後漢末期の政治家。皇帝に願い出て益州牧に就任。蜀に独立勢力を築いた。三国志演義では黄巾の乱の頃には幽州に赴任しており、義勇軍を結成して間もない劉備らを迎え入れている。ここで劉備と懇意になり、後に劉備が蜀の地を狙う伏線として描かれている。 | ||
李厳【C】 | C | 街道の整備【40-50%】 | 銭 | 漢 | 10 | 字は正方、荊州南陽郡の人。劉表、劉璋へ仕え、益州の成都県令を任じられていたが劉備の入蜀時に劉備に仕えることとなる。蜀科の制定や漢中統治に携わり、諸葛亮から能力を高く評価されたが晩年の失策が元で失脚、庶民に落とされている。 | ||
鄧芝【C】 | C | 特技なし | 銭 | 漢 | 10 | 字は伯苗、荊州南陽郡新野の人。蜀に仕えた武将・政治家。関羽を殺された劉備の復讐戦により険悪となった蜀と呉の同盟締結を成功させた功績を持つ。魏への北伐を始めたい諸葛亮に見込まれて、文官から外交の使者に抜擢された。 | ||
劉岱【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 漢 | 10 | 字は公山。曹操配下の武将で王忠とともに徐州・小沛で謀反を起こした劉備を攻撃するが鎧袖一触、敗北している。小説『三国志演義』では同姓で字まで同一の兗州刺史・劉岱と混同され同一人物となっている。 | ||
袁胤【C】 | C | 特技なし | 防衛 | 袁 | 10 | 豫州汝南郡汝陽県の人。袁術の従弟である。袁術の配下だった孫策が江東を平定したころに袁術の命により揚州・丹陽の太守に任命された。しかし着任早々孫策旗下の武将・徐琨の攻撃をうけ丹陽から追い払われている。 | ||
袁胤【R】 | R | 一族離散【40-50%】 | 兵糧|防衛 | 袁 | 30 | 袁術の従弟であり配下の武将だった。仲の皇帝を自称した袁術が没すると袁術の棺や家族を引き連れて廬江太守の劉勲の元へ身を寄せた。しかしここでも劉勲の留守の間に孫策の攻撃を受け捕えられて呉に護送されている。 | ||
袁紹【C】 | C | 名門の血筋【20-30%】 | 防衛 | 袁 | 10 | 字は本初、豫州汝南郡汝陽県の人。後漢末期に四世三公を輩出した名門袁家の御曹司。反董卓勢力の盟主として立ち。公孫瓚、張燕といった河北の強豪を打ち破り、河北を統一する。一時はかの曹操をしのぐ勢力を誇っていた。 | ||
楽就【C】 | C | 決死の覚悟【20-30%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 袁術配下の武将。曹操が自ら陳国に進攻してくると、これに対して袁術は大将軍の橋蕤に加えて李豊・梁綱、そしてこの楽就の三将を陳国に残留させ、自分だけ淮南へ逃げ帰った。楽就は他の将軍たちと曹操軍を迎撃したが敗北して戦死している。 | ||
楽就【R】 | R | 殿軍の守備【30-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 後漢末期、袁術配下の武将。三国志演義では李豊・梁剛と共に袁術軍各軍の督戦官を務めた。曹操らが寿春に攻め込んでくると袁術の命により寿春城を固守している。しかし、曹操軍の猛攻の前に陥落し楽就らは城内の市場へ引き出されて斬首された。 | ||
郭図【C】 | C | 埋伏の毒【20-30%】 | 防衛 | 袁 | 10 | 字は公則、豫州潁川郡の人。後漢末期、袁紹に幕僚として仕え、韓馥を説得し冀州を袁紹に譲らせている。沮授が郭図の讒言から罷免されると沮授の指揮下にあった兵は郭図に委ねられ、郭図は袁紹軍の軍権の三分の二を掌握するに至った。 | ||
紀霊【C】 | C | 袁術軍の旗手【20-30%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 後漢末期、袁術配下の武将として、当時呂布に降り小沛に駐屯していた劉備を攻撃した。呂布は袁術の意図を見抜き、戟の小枝に矢をあてる事ができたら軍を解散する仲裁案を出した。矢は小枝を見事に射抜き。紀霊は約束により止むを得ず兵を引いている。 | ||
紀霊【R】 | R | 袁術軍の宿将【30-80%】 | 防衛 | 袁 | 30 | 袁術配下の武将。三国志演義では重さ五十斤におよぶ三尖刀の使い手として登場する。劉備軍との攻防では関羽との一騎打ちで三十合余り打ち合う。皇帝を僭称し人心を失った袁術に最後まで付き従い、その後の張飛との一騎打ちで敗退した。 | ||
高覧【C】 | C | 急襲体勢【20-30%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 袁紹配下の武将。名は高奐とも。史実では官渡の戦いで烏巣の攻撃に向かった曹操の留守を衝くため、同僚の張郃と共に曹操の本陣に攻撃を仕掛けている。しかし結局攻め落とせず、烏巣を陥落させ戻ってきた曹操に降伏しているとだけある。その後の記述は無い。 | ||
淳于瓊【C】 | C | 特技なし | 防衛 | 袁 | 10 | 字は仲簡、豫州潁川郡の人。後漢時代に皇帝直属部隊である西園八校尉の一人に袁紹や曹操とともに選ばれている。その後董卓が朝廷の実権を握るとそれを嫌って袁紹に仕えた。官渡での袁紹と曹操の決戦時には淳于瓊は三軍の一つを任されている。 | ||
甄姫【C】 | C | 特技なし | 銭 | 袁 | 10 | 甄氏とも。曹操の子で魏の初代皇帝となった曹丕の妻である。曹丕に寵愛され息子の曹叡を産むが、次第にその寵愛は薄れていき曹丕の勘気に触れ死を賜ることになった。後に皇帝となった息子の曹叡によってその名誉は回復され『昭』という謚を贈られている。 | ||
甄姫【R】 | R | 美姫の激励【30-80%】 | 銭|銭 | 袁 | 30 | 甄氏。諡号は文昭皇后。中山郡無極県の人。魏の初代皇帝・曹丕の妻である。初めは袁紹の次男・袁煕の妻であったが、曹操が冀州を攻め落とした時に息子の曹丕が真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ、その際に甄氏を見初めて曹操に許しを得て妻にしたという。 | ||
審配【C】 | C | 危地察知【50%】 | 防衛 | 袁 | 10 | 字は正南、冀州魏郡陰安県の人。後漢末期に袁紹配下だった武将。袁家の内紛の間隙を突いて攻めてくる曹操軍を何度となく撃破するが、次第に追い込まれ甥の審栄の裏切りにあって捕らえられる。袁家の忠節を貫き、曹操への帰順を激しく拒んで処刑された。 | ||
沮授【C】 | C | 屈指の戦略眼【20-30%】 | 兵糧 | 袁 | 10 | 韓馥に仕え後に袁紹に仕えた。袁紹を河北最大の勢力に押し上げるが郭図の讒言により田豊ともども遠ざけられている。官渡の戦いの大敗後、それでもなお曹操には降らず袁紹に尽くそうとした忠臣。 | ||
陳琳【C】 | C | 才知の文【20-40%】 | アイテム | 袁 | 10 | 字は孔璋、揚州広陵郡洪邑県の人。後漢末期の文官。後に建安七子の一人に数えられることになる。はじめは後漢王朝の大将軍・何進に仕えていた。何進が宦官との暗闘で横死すると陳琳は冀州に難を避けて逃れ、袁紹配下の幕僚となっている。 | ||
逢紀【R】 | R | 防衛の指揮【100%】 | アイテム|銭 | 袁 | 30 | 袁紹配下の政治家・武将。袁紹死後に跡目争いが勃発する。逢紀は三男袁尚を審配と共に支持して長男袁譚を支持する郭図・辛評らの一派と対立した。その跡目争いの隙を曹操に突かれ袁譚軍は曹操軍に大敗し、怒りを買った逢紀は殺害された。 | ||
張郃【C】 | C | 袁軍の先槍【20-30%】 | 内政なし | 袁 | 10 | 字は儁乂、冀州河間郡鄚の人。韓馥、次いで袁紹に仕え、官渡の戦いにおいて曹操に降伏した。その後は魏の宿将として長く活躍する。後年、魏に張郃ありと謳われた。諸葛亮指揮下の蜀軍を撃破して諸葛亮を驚かせ、その北伐を破綻させている。 | ||
許攸【C】 | C | 手土産持参【20-30%】 | 銭 | 袁 | 10 | 張邈とは奔走の友の契りを結んでいたという。霊帝に造反を画策するが失敗、逃亡の後、袁紹に仕える。官渡の戦いで袁紹への献策が受け入れられず家族が捕縛されると、許攸は袁紹を見限って曹操軍に投降している。 | ||
袁譚【C】 | C | 栄光の進撃【20-30%】 | 兵糧 | 袁 | 10 | 後漢末期の群雄の一人で、名門袁家の棟梁である袁紹の長子。袁譚は恵み深い人物であり、人材を招くことを趣味としながら、その一方で奸臣の言葉にばかり耳を貸す人物であったと魏志伝には記されている。 | ||
袁譚【R】 | R | 虚栄の進撃【40-60%】 | 兵糧|防衛 | 袁 | 30 | 後漢末期の武将、袁紹の長子。青州を治めた。袁紹の死後に弟・袁尚と家督を争っている隙を曹操に突かれて結局は曹操に討ち取られている。小説『三国志演義』ではさらに無能な武将として描かれ、南皮の戦いで曹洪に討ち取られたことになっている。 | ||
袁尚【C】 | C | 匹夫は去れ!【40-60%】 | 銭 | 袁 | 10 | 字は顕甫、豫州汝南郡汝陽県の人。後漢末期の武将。袁紹の少子。袁譚とは異母兄弟であろうと思われる。袁尚はその美貌と武勇のため父と母の双方から寵愛されていた。袁紹は長子である袁譚を差し置いて袁尚に後継させようと目論んでいたとされる。 | ||
袁尚【R】 | R | 冗談はよせ!【60-80%】 | 銭|防衛 | 袁 | 30 | 後漢末期の武将。袁紹の少子。袁紹の死後に兄・袁譚と家督を争っている隙を曹操に突かれて敗走、結局は曹操に討ち取られた。三国志演義では兄・袁譚よりもさらに器量が乏しく、わがまま振りや無能振りがさらに強調されて描かれている。 | ||
韓玄【C】 | C | 治安の安定【20-30%】 | 銭 | 他 | 10 | 後漢時代末期の荊州四英傑の一人。史実においては曹操が荊州を制圧したときの長沙太守であり、金旋や劉度らと共に曹操の配下だった劉備の軍勢に降伏している。湖南省長沙市内には今も韓玄の墓が現存し、漢忠臣韓玄之墓と記されている。 | ||
韓遂【R】 | R | 斥候の活用【40-50%】 | 銭 | 他 | 30 | 字は文約。後漢末期における涼州・関中軍閥の中核を担った人物で、馬騰と涼州に大勢力を持った。その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けつつ中央への反乱を繰り返している。夏侯淵の軍略の前に敗れ、逃亡ののち病没したという。 | ||
廖化【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 字は元倹、生年は不詳。荊州襄陽郡中盧県の人。小説『三国志演義』では黄巾党残党の出自ながらも関羽に仕え、後には諸葛亮指揮下の将として活躍して、蜀漢滅亡まで生き抜いた人物として描かれている。時期は不明ながら改名しており元の名を廖淳と言った。 | ||
馬玩【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 他 | 10 | 後漢末期の豪族。西暦211年に曹操へ反乱を起こした馬超・韓遂・成宜ら九名と共に関中に割拠した軍閥の一人とされている。馬騰・馬超とは同姓だが親族という記録は無い。馬超が韓遂と同盟して曹操に反旗を翻した際に他の軍閥と同盟を組み挙兵した。 | ||
馬玩【R】 | R | 西涼の戦略【30-80%】 | 防衛 | 他 | 30 | 『三国志演義』では韓遂配下の一人として登場する。父の復讐の為に馬超が曹操討伐の兵を挙げると共に挙兵した韓遂に従って潼関で曹操軍と戦った。後に曹操の放った離間の計にかかり韓遂と仲違いをした馬超と戦うが一撃で討ち取られている。 | ||
龐徳【R】 | R | 猛将の一喝【40-60%】 | 防衛 | 魏 | 30 | 曹操の漢中平定時に帰順し曹操に仕えた。『三国志演義』では、関羽討伐戦において魏の将として蜀への内通を疑われながらも決死の覚悟で関羽に挑んでいる。一騎打ちで関羽に傷を負わせるが惜しくも敗北。命乞いも降伏もせず関羽によって首を討たれた。 | ||
馬岱【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 他 | 10 | 蜀の武将。馬超の従弟。馬超が病気で死去する際に、馬一族の唯一の生き残りとして馬岱の名を挙げ、馬氏の祭祀を守らせる者として劉備に託したとある。諸葛亮最後の北伐での退却途中、反乱を起こした魏延を追撃して討ち取ったのも彼であった。 | ||
邢道栄【C】 | C | 匹夫の勇【30-40%】 | 内政なし | 他 | 10 | 『三国志演義』に登場する架空の武将。後漢末期の零陵郡の太守、劉度配下の大将。零陵郡一の怪力の持ち主で大斧の使い手であった。万夫不当の荒武者と評されている。荊州南郡四郡を攻略、その内の一つ零陵郡に至った劉備軍を迎え撃った。 | ||
邢道栄【R】 | R | 匹夫の意地【40-60%】 | 銭 | 他 | 30 | 荊州零陵郡太守の劉度配下の猛将。劉備の荊州侵攻軍に劉度の息子・劉賢と共に立ち向かった。諸葛亮の降伏勧告を拒絶しこれに襲い掛かるが、突然現れた張飛と切り結ぶも数合で相手しきれず逃亡。趙雲が現れると降伏してしまった。 | ||
清河長公主【R】 | R | 嫁入道具【20-30%】 | アイテム|アイテム | 魏 | 30 | 曹操の娘。腹違いの弟に後に魏の初代皇帝となる曹丕がいる。彼女の婿の候補として丁儀との縁談の話が持ち上がったさいに曹操は曹丕に相談するが猛反対を受け、結局彼女の縁組を破談にした。そののち機会があり丁儀に直接会った曹操は彼の聡明さを知り、大いに後悔したという。 | ||
丁夫人【C】 | C | 特技なし | 銭 | 魏 | 10 | 丁夫人は曹操の正室・劉夫人が早逝した後に迎えられた曹操の二人目の妻である。子供には恵まれなかったが、劉夫人の遺した曹昂・曹鑠らを自分の子ではないにも関わらず大変に可愛がって曹操の跡継ぎとして育てた。 | ||
卞夫人【SR】 | SR | 癒しの音色【50-70%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 魏 | 40 | 曹操の三人目の正室。華美を好まず、聡明で慎み深かったとされている。歌妓の出自から名門の出である前正室の丁氏からは始めは軽蔑されていたが、丁氏と曹操が離縁したあとも挨拶を欠かさず礼をもって付き合おうとする卞夫人に、やがて丁氏からも感謝されるようになったという。 | ||
卞夫人【SSR】 | SSR | 清浄なる音色【70-100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧|防衛 | 魏 | 50 | 西暦219年、母道の模範となるべき徳を具えているとして王后に取り立てられた。220年に曹操が亡くなり、実子曹丕が王位につくと王太后、さらに皇太后となった。曹操の死後、後継問題で曹植が曹丕に殺されそうになると命乞いをして曹植を助けたという。 | ||
孫尚香【SR】 | SR | 弓腰姫の本領【80-100%】 | 銭 | 蜀 | 40 | 孫堅の娘で、孫策・孫権の妹。政略結婚で劉備の妻となる。苛烈な性格であったとされ、武装した侍女たちが付き、部屋には武具が飾られてあった。孫夫人を恐れる劉備の逸話がいくつも残っており、夫婦仲はそれほど良いものではなかった。後には別居状態となる。 | ||
孫尚香【SSR】 | SSR | 百花繚乱【100%】 | 銭 | 蜀 | 50 | 孫堅の娘で、政略結婚で劉備の妻となる。小説『三国志演義』では武芸に秀でた女性として描かれ、正史とは一転して劉備との夫婦仲は良好に描かれている。計略にかかり呉に帰国した後も劉備を想い続け、劉備夷陵にて戦死の噂に絶望して長江に身を投げたという。 | ||
歩夫人【R】 | R | 内助の功【60-80%】 | 兵糧|兵糧 | 呉 | 30 | 徐州臨淮郡淮陰の人。呉の皇帝・孫権の妻の一人で、彼が最も愛した女性であった。孫権は内心、彼女を皇后にしたかったが、孫登が皇太子に立てられると群臣は養母の徐夫人を皇后にたてるように進言した。歩夫人もまた皇后につこうとはせずに早逝している。 | ||
蔡文姫【C】 | C | 特技なし | アイテム | 漢 | 10 | この時代を代表する音楽家であり女性詩人。後漢時代末期の大学者である蔡邕の娘として生まれる。その父が董卓誅殺の後に連座して獄中に下され病死すると娘の蔡文姫はこの後、数奇な運命を辿ることとなる。 | ||
鄒氏【C】 | C | 特技なし | 防衛 | 漢 | 10 | 正史にはその名前の記録は無い。小説『三国志演義』では傾城傾国とも呼ばれる絶世の美女として登場、曹操の人生最大の失敗とされる宛城の襲撃の要因となった。この敗走で曹操は典韋と実の子である曹昂を失ったうえに丁夫人の怨みを買い離縁するありさまであった。 | ||
伏皇后【R】 | R | 漢王朝の守護【60-80%】 | 銭|銭 | 漢 | 30 | 後漢最後の皇帝、献帝の皇后。徐州瑯邪郡東武県の人。西暦190年。董卓が献帝を連れ長安に遷都した時に貴人となっている。195年に皇后となり献帝の洛陽帰還に同行する。無事洛陽に帰還するがその後は曹操の庇護を受けることになった。 | ||
美女連環の計【SSR】 | SSR | 恋情之壁【80%】 | 防衛|防衛|防衛|防衛 | 漢 | 99 | 『三国志演義』では司徒・王允は朝廷を欲しいままにしていた董卓を呂布に殺させるため、養女の貂蝉を使い二人の仲を裂く「美女連環の計」を仕掛けた。貂蝉の色香に惑わされた呂布は貂蝉を欲する董卓を討ち、見事に王允の計略は成功した。董卓亡き後の二人については作品によって扱いが異なる。 | ||
[奸雄]曹操【SR】 | SR | 奸雄の号令【80-100%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 魏 | 40 | 反董卓連合軍が解散した後は力をつける為、袁紹と取引し黒山賊の討伐と引換えに東郡太守に任命された。さらに青州の黄巾賊を討伐し降伏した兵のうち精鋭を自軍に編入した。数年かけ力をつけた曹操は呂布を始めとした中原の群雄を打ち破り、袁紹との決戦「官渡の戦い」を制し中原の覇者となった。 | ||
[超龍]諸葛亮【SR】 | SR | 万古不敗の探求【54-80%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭 | 蜀 | 40 | 『臥龍神』字は孔明。司馬徽より「諸葛亮と龐統は臥龍・鳳雛であり、どちらか片方を得ればテンカを手に入れることができる」と評されていた。その後劉備より「三顧の礼」によって軍師に迎え入れられることとなる。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]劉備【R】 | R | 義勇の援兵【47-80%】 | 兵糧|アイテム | 蜀 | 30 | 字は玄徳。『三国志演義』の主人公。漢王朝の血を引き、義と徳によって乱れた世を立て直そうと立ち上がった英傑。魏の君主・曹操に「テンカの英雄はおぬしと予だ」と言わしめた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]呂布【R】 | R | 極滅の鬼気【61-85%】 | 内政なし | 漢 | 30 | 字は奉先。『三国志演義』では宦官討伐の檄文に応じた群雄・丁原の養子として登場する。万里を翔る・赤兎馬欲しさに丁原を倒し董卓を新たな養父とした。「人中の呂布、馬中の赤兎」と言われ最強の武人として恐れられた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]孫権【R】 | R | 神算の碧眼【15-40%】 | 兵糧|防衛 | 呉 | 30 | 字は仲謀。江東の虎・孫堅の次男。角ばった顎に大きな口、きらきらと光る眼を持っていた。父・孫堅からは「貴人の相をしている」と期待されて育った。兄・孫策の後を継ぎ呉の君主となった。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]大喬小喬【R】 | R | 昇華の天舞【27-50%】 | 兵糧|銭|銭 | 呉 | 30 | 江東の名士・喬公の娘たち。姉の大喬は「月も光を消してしまい、花も恥じらってしまう」と称され、妹の小喬も大変な美人であったと言われている。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]曹操【R】 | R | 覇者覇道の理【9-50%】 | 兵糧|銭 | 魏 | 30 | 字は孟徳。人物鑑定家・許子将から「治世の能臣、乱世の奸雄」と呼ばれ、その評価通り詩文や酒造りなど文化面での業績と、乱れた国土を再統一に導いた軍事的手腕は後世まで伝えられている。「三国志」の作者・陳寿は「超世の傑」と評した。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]張飛【R】 | R | 気合一発【40-50%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 字は益徳。『三国志演義』では字は翼徳とされている。身長は八尺(約2.4m)で虎髭を蓄えた「蛇矛」と呼ばれる矛を愛用した豪傑。一万人の兵に匹敵する武力を持つと言われ、各陣営からもその武勇に一目置かれていた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]張飛【SR】 | SR | ド根性【50-70%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 40 | 『決死の燕将軍』張飛の武勇を表すのに最も有名なのは新野から逃げる劉備を追撃する曹操に対し長坂橋でただ一騎敵を食い止めた逸話だろう。決死の覚悟で放った一喝は曹操軍数千の兵を足止めし張飛の名をテンカへ轟かせた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]曹操【SR】 | SR | 主我覇道の編纂【20-80%】 | 兵糧|銭|アイテム | 魏 | 40 | 『求覇の武王神』黄巾の乱と漢王朝崩壊による中原の戦乱を収束に導いたが、全土の統一は呉の名将・周瑜に阻まれ果たせなかった。息子の文帝・曹丕から太祖武皇帝と諡(おくりな)された。数多の戦場を駆けその名の通り武を持って勝利と平和をもたらした。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[超龍]関羽【SSR】 | SSR | 龍鳴の双撃【10-80%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 魏 | 50 | 『忠義神』字は雲長。「桃園の誓い」で劉備、張飛と義兄弟の契りを結び、乱れる世を正そうと立ち上がった。宿敵・曹操に降伏した際も受けた恩を返し、劉備の元へ帰った事で忠義の武将として人々の尊敬を集めた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]孫権【SR】 | SR | 虚心坦懐の慧眼【17-70%】 | 兵糧|銭|防衛 | 呉 | 40 | 『秘勇の将軍神』孫家の男は陣頭の猛将という気質があり父・孫堅と兄・孫策に比べ孫権はおとなしい印象があるが「合肥の戦い」では陣頭で指揮し、退却時には最後まで指揮を執る勇猛果敢な将という一面も見せた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]劉備【SR】 | SR | 決起の義勇【60-100%】 | 兵糧|アイテム|防衛 | 蜀 | 40 | 『明徳の英傑神』黄巾の乱で功績を立てたが認められず、義や徳を重んじてなかなか、根拠地を得られず流浪を繰り返したが関羽、張飛を始めとする多くの英傑が劉備を慕い集結した。軍師・諸葛亮の手腕で蜀漢皇帝に即位した。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
金銭亀 | SR | 銭獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | 5万銭で売却 | 亀は古来より中国では吉兆として信じられ、四霊の一つとして数えられていました。四霊とは麒麟、鳳凰、霊亀、応龍の事です。霊亀は千年を生きた亀が霊力を持ったものとされています。三国テンカトリガーでは愛らしい外見から愛玩用や長寿の妙薬として重宝されており5万銭で売却できます。 | |
清河長公主【C】 | C | 特技なし | アイテム | 魏 | 10 | 長公主とは元々中国では皇帝の娘の尊称であり、後には皇帝の姉妹のことを指すようになった。清河長公主は魏の曹操と劉夫人との娘で、実の兄に曹昂・曹鑠がいる。生母の劉夫人は早くに亡くなり、子供のいなかった後添えの丁夫人に育てられた。 | ||
孫尚香【C】 | C | 特技なし | 銭 | 呉 | 10 | 小説『三国志演義』では孫仁、正史では孫夫人と記されている。孫堅の娘で孫策・孫権は実の兄にあたる。母は『三国志演義』では呉国太という設定になっているが正史では明確な記述が無い。後に政略結婚で劉備の妻の一人となった。 | ||
甘夫人【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 蜀 | 10 | 甘皇后とも。劉備の妻の一人で蜀の第二皇帝になる劉禅の生母である。第二夫人ではあるが劉備が最も長く連れ添っていたため、信頼され奥を取り仕切っていたという。劉備の逃避行中に亡くなり南郡で埋葬されるが、後に諸葛亮によって昭烈皇后の諡を贈られ劉備と合葬された。 | ||
夏侯淵【SSR】 | SSR | 神弓の残心【100%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 50 | 小説『三国志演義』では剛直で弓術に長けた武闘派の猛将として描写されている。漢中を守る将として陽平関を巡る激戦の中、劉備軍の同じく弓の名手である黄忠に討たれて定軍山にて戦死。漢中は劉備の手に落ちた。曹操は彼の戦死の報を聞いて嘆き悲しみ、そして激怒したという。 | ||
丁夫人【SR】 | SR | お別れね【100%】 | 銭|銭|銭 | 魏 | 40 | 曹操の正室だったが離縁した。その後、彼女は再婚することなく亡くなっている。また曹操も後年、その死の間際に「もし死者に霊魂があり、曹昂に私の母はどこにおられますか?と聞かれたなら予は何と答えたらいいのだろうか」と語り、嘆息したという。 | ||
曹植【R】 | R | 対酒当歌【35-60%】 | アイテム|アイテム | 魏 | 30 | 字は子建、沛国譙県の人。曹操の五男で魏の皇族。諡から陳思王とも呼ばれている。父の曹操の詩才と歌姫の出身である卞夫人の血を受け継ぎ、後に唐以前の中国を代表する文学者となる。詩聖の評価を受けた人物でもあった。後に才高八斗・七歩の才の語源ともなっている。 | ||
曹植【SR】 | SR | 詩聖酒歌【54-80%】 | アイテム|アイテム|アイテム | 魏 | 40 | 魏の文学家・詩人。曹操の嫡男。幼い頃より詩を諳んじて自ら詩人でもあった父・曹操に寵愛された。しかし曹植自身は詩文によって自分が評価されることをむしろ軽んじていたという。戦で武勲を挙げ、民に善政を敷くことこそ本望である。との言葉が残っている。 | ||
曹操の夫人達【SSR】 | SSR | 女誡の訓【100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧|銭|銭 | 魏 | 99 | 曹操の正室、側室の二人。丁夫人は身分の低い側室である卞夫人に当初冷たい態度を取っていたが、丁夫人が曹操と離縁した後も礼をもって付き合おうとする卞夫人に心を開いていった。 | ||
魯粛【SSR】 | SSR | 名工風靡【50-60%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|銭|銭 | 呉 | 50 | 『三国志演義』では人が好く諸葛亮や周瑜に振り回される役所だが、実際には劉備を曹操に対抗する盾にするため孫劉連盟を維持するなど極めて現実的な戦略家であった。さらに単刀赴会で見られるように単身で関羽と向かい合い荊州南郡の割譲に成功するなど智謀に加え勇気と胆力も備えた人物でもあった。 | ||
呂布【SSR】 | SSR | 吼えよ赤兎!【80-100%】 | 内政なし | 漢 | 50 | 最強の武将と呼ばれた彼だが、董卓の専横を誅するべく王允の謀った美女連環の計にかかり、貂蝉を巡るいさかいから董卓を殺してしまう。その後も主を殺し、裏切り、自らの武勇のみで乱世を生き抜き、最期は部下に裏切られてその生涯を終えた。 | ||
卞夫人【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 魏 | 10 | 卞氏、徐州琅邪郡の人。曹操の妻で子の曹丕・曹彰・曹植・曹熊らを産み、実子だけではなく他の曹操の妻が生んだ子たちも分け隔てなく養育した。側室ではあったが後に丁夫人が廃されると正室になる。魏が建てられた後に諡号(しごう)の武宣皇后を贈られている。 | ||
麋夫人【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 蜀 | 10 | 劉備の側室の一人で、糜竺・糜芳の妹。正史では陳寿の記述に存在が見られ麋竺の伝に記載が残る。陶謙に仕えていた麋竺が劉備を迎え入れた際に劉備の夫人となる。正史での記述はこれだけだが小説『三国志演義』では自らの命をなげうって劉禅を救う役どころで一躍人気となった。 | ||
貂蝉【C】 | C | 特技なし | 防衛 | 漢 | 10 | そのあまりの美しさに月が恥じて雲に隠れてしまったことから「閉月の美人」と称される絶世の美女。小説『三国志演義』に登場するが正史にはその記述は無く、架空の人物と思われるがそのモデルとなった侍女の記録が残っている。 | ||
天龍王 | SSR | 武将経験値獲得【0%】 | 内政なし | 神仙 | 1 | テンカを目指すものの前に、時として現れるとってもお目出度い天の使い。武将継承時に使用すると経験値3000を入手できる。 | ||
関羽【SSR】 | SSR | 美髯公の覇気【100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀の創始者となる劉備に仕えた武将。小説『三国志演義』では唯の一度も関羽の諱(いみな)では呼ばれておらずここでも特別な扱いを受けている。後世の人間により神格化され関帝となり四十七人目の神とされた。信義に厚い事から現在では商売の神として祭られている。 | ||
孫策【SSR】 | SSR | 覇王の一撃【80-100%】 | 兵糧|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 袁術配下から独立した孫策は、劉表を抑えながら江東・江南の大部分を電光石火にその支配下に治めるがその矢先、許貢の残党により襲撃されて重傷を負ってしまう。自らの死を悟った孫策は後継者に実子であった孫紹ではなく弟の孫権を指名した。張昭と周瑜を後見人に任じて没している。 | ||
夏侯惇【SSR】 | SSR | 隻眼将の号令【90-100%】 | 兵糧|兵糧|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 曹操の腹心にして四天王筆頭の隻眼将軍。西暦220年に曹操が死ぬと同年、後を追うように病死している。諡(いみな)は忠侯と贈られた。曹叡の代に、曹仁・程昱らと共に曹操の廟園(びょうえん)に祀られている。清廉で無欲な人柄を示すように埋葬品はたった一振りの剣しか無かった。 | ||
[超龍]関羽【UR】 | UR | 龍飛の礼節【10-100%】 | 兵糧|銭|銭|銭|防衛 | 魏 | 50 | 『奮起の忠義神』劉備が入蜀を果たした後は総督として荊州を守備した。魏の樊城を攻略中に呉の呂蒙に荊州を奪われ、魏と呉に挟撃されたが最後まで降伏せず忠義を全うした。現代では信義を尊んだ事にあやかり、商売の守り神として信仰されている。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
小喬【C】 | C | 特技なし | 銭 | 呉 | 10 | 呉を代表する参謀・周瑜の妻となった女性である。正史には橋公の娘で周瑜の妻との記述しかないが小説『三国志演義』では姉の大喬と共に「江東の二喬」と呼ばれた美女として登場。赤壁の戦いに呉が参戦する決定的要因となる役回りを演じている。 | ||
大喬【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 呉 | 10 | 後に孫策の妻となった。江東の二喬と呼ばれた絶世の美人姉妹の姉にあたる。小説『三国志演義』では『月も光を消してしまい、花も恥じらってしまう』とその容姿の美しさについて称されている。 | ||
[龍]大喬小喬【SR】 | SR | 天昇の舞想【29-80%】 | 兵糧|兵糧|銭|銭 | 呉 | 40 | 『凛聖の双華神』江東の名士・喬公の娘たち。孫策と周瑜が皖城を制圧した際に見初め妻とした。孫策は「二喬は美人であるが、我ら二人を夫にできる二人も幸せであろう」と言って惚気たが孫策、周瑜共に容姿端麗と伝えられており実際、美男美女の組合せであった。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[極龍]関羽【SR】 | SR | 超然たる忠義【40-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 蜀 | 40 | 『美髯神』字は雲長。身長は九尺(約2.7m)、髭は二尺(約60cm)で赤ら顔の偉丈夫であったとされている。『三国志演義』では曹操に降った際、謁見した献帝が髭を褒め「美髯公」と呼び通称となった。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[極龍]関羽【SSR】 | SSR | 不撓不屈の信義【45-100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 蜀 | 50 | 『義篤の美髯神』関羽の「髯」は諸葛亮からも賞賛を受けている。新参の馬超を平西将軍に任命した際、不快感を示した関羽を諸葛亮がなだめた手紙に「馬超は髯殿には及ばない」と書いた事で関羽が喜び賓客に見せた逸話もある。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[超龍]諸葛亮【SSR】 | SSR | 百戦百勝の求道【58-90%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭|銭 | 蜀 | 50 | 『俊才の臥龍神』三国志を代表とする名軍師。劉備に自ら国を興して魏と呉と対抗する「天下三分の計」を授けると、以後軍師として政治、軍事と多岐に渡って天才的な能力を発揮し、蜀の建国と存続に大きく貢献した。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[極龍]諸葛亮【SSR】 | SSR | 破邪破軍の仙術【38-80%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭|銭 | 蜀 | 50 | 『命龍神』字は孔明。「赤壁の戦い」では呉軍と協力して魏軍と対峙した。魏軍の軍船を火計で殲滅させるため、必須とされていた東南の風を七星壇を用いた祈祷により見事吹かせることに成功し、勝利へと導いた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[極龍]諸葛亮【UR】 | UR | 水明星心の占術【10-100%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭|銭 | 蜀 | 50 | 『天星の命龍神』呉の将軍・陸遜が「夷陵の戦い」で劉備に勝利し、その勢いのままに追撃した際、諸葛亮は退却先の白帝城で「石兵八陣」と呼ばれる巨大迷路の罠を用意し、寡兵で呉軍を退却させることに成功した。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]関銀屏【R】 | R | 守主攻従の化勁【40-60%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 30 | 蜀の将軍・関羽の娘。三国志正史・演義に孫権の息子と関羽の娘の縁談が持ち上がった際、関羽が「虎の娘を犬の子にはやらん」と突っぱねたという逸話がある。関銀屏はこの逸話から生まれた架空の人物ともいわれている。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]関銀屏【SR】 | SR | 剛柔一体の練気【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 蜀 | 40 | 『桃園の義将姫』蜀の将軍・関羽の娘で、名付け親は関羽の義兄弟、張飛。大層美しく育ったが、関羽が呂蒙に敗北を喫すると仇を打つために趙雲に弟子入りして武芸の腕を磨き、一軍を率いて孫権軍と戦ったとされている。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]趙雲【R】 | R | 百錬精鋼の心気【80-100%】 | 防衛 | 蜀 | 30 | 字は子龍。冀州常山の生まれ。身長は八尺(約2.4m)で容姿に優れていたと言われている。はじめは義勇兵の頭領となり公孫瓚に仕えた。やがて公孫瓚を訪ねてきた劉備と出会い、その人柄に惚れこみ生涯の主君と定めて臣下となった。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[龍]趙雲【SR】 | SR | 質実剛健の奮起【100%】 | 防衛 | 蜀 | 40 | 『龍威の勇将軍』蜀建国の功臣にして「五虎大将軍」の一人。『三国志演義』では「長坂の戦い」で敵中に取り残された劉備の子「阿斗」を、曹操軍の将軍五十人を斬って救い出し勇名を轟かせた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
賈詡【SSR】 | SSR | 極・離間の計【100%】 | 銭|防衛|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 魏の軍師。智謀に長け数々の献策を行った。曹操には「赤壁の戦い」直前に荊州の足場を固め孫権に対するべきだと献策し将来を見通す確かな目を持っていた。三国志の作者、陳寿は「荀攸と賈詡は張良・陳平に次ぐ人物」と評した。 | ||
盧植【SSR】 | SSR | 名将の千里眼【100%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|防衛 | 漢 | 50 | 小説『三国志演義』では黄巾の乱討伐の将軍として登場。かつての教え子である劉備と再会し、劉備が尊敬している様子が描かれている。宦官の讒言で陥れられて更迭された後に朝臣として復帰するがその後引退。劉備たちとの再会は果たされることはなかった。 | ||
[龍]呂布【SR】 | SR | 業滅の瘴気【74-100%】 | 内政なし | 漢 | 40 | 『羅刹の飛将神』後漢末期、最強の武人として恐れられた。その武勇から後漢の勇将・李広の二つ名「飛将軍」と呼ばれた。裏切りの連続で下克上を果たしたが、羅刹の如き性質で常に戦を渇望し自ら戦場へ赴いた。※パズドラ本編の世界観とは異なります。 | ||
[絢爛]貂蝉【SSR】 | SSR | 比類なき美【100%】 | 防衛|防衛|防衛|防衛 | 漢 | 50 | 『正史』に登場せず、架空の人物であると言われているにも関わらず、中国四大美人の一人に数えられている絶世の美女。その美貌は「閉月美人」と称される程圧倒的であり、一度誘惑されたならばそれが呂布でなかったとしても抗える者はいなかっただろう。 | ||
呉夫人【C】 | C | 特技なし | 兵糧|兵糧 | 呉 | 10 | 孫堅の正室となり、孫策・孫権らを産み育ててその後も長く孫家の覇業を支え続けた賢婦人と称えられる。揚州呉郡呉県の生まれで早くに両親を亡くし銭唐に移住していたが、その時まだ江東の一勢力にすぎなかった孫堅が彼女の才色兼備を聞きつけ、求愛し婚姻を求めたという。 | ||
呂布【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 漢 | 10 | 字は奉先。五原郡九原の出身。武勇に優れ并州刺史・丁原に仕えて主簿に任じられた。後に丁原の兵を欲した董卓に篭絡され、主である丁原を殺害して董卓に仕えるようになった。 | ||
閻圃【R】 | R | 細密な戦略【80-100%】 | 兵糧|防衛 | 漢 | 30 | 魏の政治家・軍師。もとは張魯配下の軍師だったが曹操に帰順した。曹操は閻圃を高く評価して列侯に封じ、馬超の妾であった董氏を与えている。閻圃は曹操の死後曹丕からも重用され、帝位に就いた曹丕は閻圃を手厚い礼をもって宮中に招いている。 | ||
閻圃【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 漢 | 10 | 益州巴西郡の人。後漢末期に漢中を支配していた五斗米道の教祖・張魯の軍師。曹操が漢中に攻め込むと張魯は降伏しようとするが、閻圃は曹操から軽く見られるという判断から一戦を主張している。果してその通り張魯と閻圃は魏でも重用されている。 | ||
張衛【R】 | R | 漢中の守護者【70-80%】 | 防衛|防衛 | 他 | 30 | 後漢末期の武将。道教教団・五斗米道の指導者である。漢中に侵攻した曹操軍を迎え撃ち大打撃を与えた。曹操軍は撤退するが張衛が警戒を緩めている事に気付き、闇にまぎれて逆襲する。張衛軍は壊乱し、張衛は曹操に降伏した。 | ||
張衛【C】 | C | 特技なし | 防衛 | 他 | 10 | 字は公則、豫州沛国豊県の人。後漢末期の武将。漢中を支配していた群雄・張魯の弟。道教教団・五斗米道の指導者。西暦215年。曹操は五斗米道の本拠地の漢中征伐のため軍を発した。兄は恭順しようとするが張衛は独断で迎え撃った。 | ||
張魯【C】 | C | 特技なし | 兵糧|兵糧 | 他 | 10 | 字は公祺。豫州沛国豊県の人。後漢末期の五斗米道の指導者で、道教の教理を利用して漢中を支配した。後に曹操に降伏するがその時、国家の財産として財宝を焼き払わず手をつけずに置いたため、感心した曹操によって許され重用された。 | ||
張魯【R】 | R | 五斗米道【80-100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 他 | 30 | 後漢末期の五斗米道の指導者。道教の教理を利用して漢中を支配するが曹操に攻められ帰順する。しかし五斗米道は勢力はやや衰えるものの曹操に保護される事でその教義は次世代へと受け継がれ、後の道教などにも影響を与えている。 | ||
劉禅【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 蜀 | 10 | 蜀漢の第二代皇帝。父・劉備が荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。新野の戦いでは趙雲に救われ九死に一生を得ている。劉備が漢中王となると太子となった。西暦223年に父帝の死に伴い十七歳で蜀の皇帝に即位した。 | ||
[奸雄]曹操【SSR】 | SSR | 魏王の号令【100%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|銭 | 魏 | 50 | 「官渡の戦い」の後、荊州を陥落させた曹操は孫権との決戦「赤壁の戦い」に臨むが孫呉の大都督・周瑜に敗れ80万と号された軍勢は壊滅した。数年かけ軍備を再編し漢中の張魯を降したが、蜀を獲った劉備に「定軍山の戦い」で敗北し漢中と宿将・夏侯淵を失った。この戦いの後、66歳で曹操は死去した。 | ||
清河長公主【SR】 | SR | 下賜の品【40-50%】 | アイテム|アイテム|アイテム | 魏 | 40 | 長公主とは今上皇帝の姉妹のことを指す。丁儀との破談のあと彼女の縁談先は夏侯惇の息子の夏侯楙となった。しかし夏侯楙は無能なだけでなく多くの愛妾をかこうような人物だったので夫婦仲は険悪だったという。彼女は夏侯楙を讒訴し、国家によって処刑させようと画策したという。 | ||
張紘【SR】 | SR | 神農の智【80-100%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭 | 呉 | 40 | 孫権の時代になっても張紘は厚く信頼され、常に尊称で呼ばれていた。呉夫人からも孫権のことを託されてその行状を諫言している。死の間際に孫権に建業へ遷都するよう進言した。その建業は呉が滅亡した後も建康と名を変えて後の六朝の首都となった。 | ||
張昭【SR】 | SR | 関帝の加護【80-100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 呉 | 40 | 孫策が暗殺されると、張昭は悲しみにくれる孫権を叱咤して君主としての任に当たらせようとした。いっこうに政務を取ろうとしない孫権を無理に馬に乗せて兵士を率いさせたという。この事で人々は孫権が後継者であること認知するようになったという。 | ||
張玉蘭【R】 | R | 五斗徴収【20-40%】 | 兵糧|兵糧 | 他 | 30 | 道教教団・五斗米道の教主である張衡の娘。巫術師である母・張母の力を受け継いだとされ、17歳の時に天より舞い降りた赤い光が身体の中に入る夢を見ると、幾日も経たずして未婚のまま子を宿した。 | ||
馬雲騄【R】 | R | 豪槍一閃【80-100%】 | 内政なし | 蜀 | 30 | 西涼の雄・馬騰の娘であり、馬超の妹。『正史』には登場しない架空の人物とされている。父・馬騰の愛を一身に受け、憧れからその背を追うように武の研鑽を重ね、美しい容貌と男顔負けの武勇を併せ持つ。 | ||
小喬【SR】 | SR | 安穏の舞い【60-80%】 | 兵糧|銭|銭 | 呉 | 40 | 周瑜の妻。小説『三国志演義』では姉の大喬と共に江東の二喬と呼ばれ、絶世の美女とされた。赤壁の戦いに曹操が「勝ったのちに大喬・小喬を侍らせてみたい」と言ったことを諸葛亮から聞いた周瑜が大いに怒り、魏との戦いを決意したという展開となっている。 | ||
小喬【SSR】 | SSR | 安寧の唱歌【80-100%】 | 兵糧|兵糧|銭|銭 | 呉 | 50 | 姉と共に「江東の二喬」と謳われた絶世の美女。後世の人は孫策のもとに嫁いだ姉の大喬ともども、英雄美人を娶りまさに良縁と言っている。二人の間に子供は無かったが周瑜との仲は睦まじく、戦に明け暮れる夫を良く支えていた。 | ||
大喬【SR】 | SR | 夢幻の舞い【50-70%】 | 兵糧|兵糧|銭 | 呉 | 40 | 孫策の妻。小説『三国志演義』では大喬の美しさを讃える言葉として月も光を消してしまい、花も恥じらうと絶賛している。赤壁の戦いでは、曹操が小喬と共に侍らせたがっていることを諸葛亮から聞いた周瑜は大変怒り、魏との戦いを決意したという筋書きとなっている。 | ||
大喬【SSR】 | SSR | 幻想の唱歌【70-100%】 | 兵糧|兵糧|銭|銭 | 呉 | 50 | 孫策に嫁いだ大喬であったが翌年、夫は襄陽で非業の最期を遂げてしまう。周瑜に嫁いだ妹の小喬ともども早くに夫を失うこととなった。二人の間に子供は無く、その血は残されなかった。その後の大喬と妹の小喬の消息は不明である。 | ||
貂蝉【SSR】 | SSR | 極・美女連環の計【90-100%】 | 防衛|防衛|防衛|防衛 | 漢 | 50 | 三国志演義に登場する絶世の美女。連環の計で董卓を滅ぼす。貂蝉のその後についてはさまざま伝承がある。呂布に切り殺された。天命を全うしたと悟り自ら井戸に身を投げた。呂布と行動を共に放浪し曹操に捕らえられ、関羽の妻となったなど。 | ||
司馬懿【R】 | R | 混元一気の陣【14-30%】 | 兵糧|銭|防衛 | 魏 | 30 | 曹操の代に取り立てられ、以後、魏王・魏帝の軍師として重用される。首を肩よりも後ろに向けられる狼顧(ろうこ)の相を持つといわれた。これを曹操は大志と野望を持つ男と見て警戒したという。その通りに、曹芳の代に至って曹操の懸念は現実のものとなった。 | ||
甘寧【SSR】 | SSR | 武神降臨【90-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 呉の武神とも言うべき将軍。黄祖討伐で頭角を現し、荊州攻防では曹仁や関羽と互角に渡り合った。濡須口の戦いでは、孫権の命で決死隊100人と共に曹操軍へ夜襲をかけ大戦果をあげた。孫権からは「曹操に張遼がいるように、私には甘寧がいる」と賞賛された。 | ||
徐氏【R】 | R | 凶事の予知【40-60%】 | 銭|銭 | 呉 | 30 | 孫堅の三男・孫翊の夫人で占術に精通していた。孫策の死後は丹陽太守となった夫に従った。1年後、丹陽郡内の県令を集めて宴会を催す事となったが、占いで「凶」という卦が出たため夫を諌めたが聞き入れられず孫翊は孫氏に恨みを持っていた辺洪に殺害された。 | ||
徐氏【SR】 | SR | 導きの予言【60-80%】 | 銭|銭|銭 | 呉 | 40 | 孫権の弟・孫翊の夫人。宴席で辺洪に夫を殺害され、賞金を掛けて彼を捕らえた。亡夫の部下・戴員と爲覧が敵を討ったかに見えたが、実はこの二人こそが辺洪を焚きつけた張本人だった。かけつけた孫翊の伯父・孫河まで殺害され徐氏は復讐を決意した。 | ||
甘夫人【SR】 | SR | 癒しの美声【60-80%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 蜀 | 40 | 劉備の側室。劉禅の母。正史・演義共に劉備が潰走する度に見捨てられているが夫の為に尽くした。劉備に従い荊州へ移り住むが「長坂の戦い」の後に死去した。慈愛に満ちた人柄で、優しさと共に強い芯を持った女性であった。 | ||
水魚の交わり【SSR】 | SSR | 臥龍の慧眼【100%】 | 防衛|防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 水魚の交わりとは「お互いに欠くことができない存在」であることを例えた故事成語であり、劉備が諸葛亮を三顧の礼によって迎え入れて以降の親密な君臣の間柄が原典とされている。諸葛亮が軍師となることで、それまで不遇が続いてきた劉備の怒涛の躍進が始まる。 | ||
[恋心]伏皇后【R】 | R | 淡い恋心【70%】 | 内政なし | 漢 | 30 | 後漢最後の皇帝、献帝の皇后。195年、洛陽帰還の際に李傕・郭汜の襲撃を受け、金品を強奪され命の危機に晒されながらも、献帝のそばを片時も離れずに添い遂げたという。 | ||
[恋心]孫尚香【SR】 | SR | 恋の魔法【80-100%】 | 銭 | 呉 | 40 | 孫堅の娘で孫策・孫権の妹。「弓腰姫」の二つ名を持つ程の弓の名手とされているが、敵対する国の君主・劉備との婚姻の実現等、異性の心を射止める腕もまた確かなものだったのだろう。 | ||
関索【R】 | R | 花関索伝【60-80%】 | 兵糧 | 蜀 | 30 | 蜀の武将、関羽の三男。架空の人物あるいはそういう素性で知られた人物がいたのかは定かでない。様々な民間伝承が残っており中には呂蒙を討ち取るなど荒唐無稽な内容もある。明代に刊行された説話『花関索伝』によれば関索は南蛮征伐中に急逝している。 | ||
関索【SR】 | SR | 真・花関索伝【80-100%】 | 兵糧|防衛 | 蜀 | 40 | 蜀の武将、関羽の息子である。『花関索伝』では劉備がまだ存命のときに陣営に加わっており、鮑三娘という武芸達者な妻を連れだっていた。関索は男勝りの女性を見つけては対戦を申し込み、力を見せ付けては次々と妻にしていた。 | ||
関索【SSR】 | SSR | 裏・花関索伝【100%】 | 兵糧|アイテム|防衛 | 蜀 | 50 | 数々の民間伝承に登場する関羽の三男。宋代から元代にかけて普及していた関索の伝説をまとめて明代に説話『花関索伝』はまとめられた。この物語は小説『三国志演義』よりも歴史が古くその成立にも大きく影響を与えたと考えられている。 | ||
甘い思い出【SSR】 | SSR | 乙女ココロ【100%】 | アイテム|銭|銭|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 左より夏侯姫、関姫、馬雲騄。全員が三国志を代表する武人達を親族に持つ。いずれの美姫達も戦乱の世で強く、そして儚く「命がけの恋」を謳歌したと言われる。 | ||
[恋心]伏皇后【SR】 | SR | 溢れる恋心【100%】 | 内政なし | 漢 | 40 | 後漢最後の皇帝、献帝の皇后。宮廷を掌握した曹操によって皇后位を剥奪されてからも献帝への愛は変わらず、最後の時まで一緒に過ごすことのみを望んだという。 | ||
陸遜【R】 | R | 孫呉の新星【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 呉 | 30 | 呉の初代丞相。陸遜の一族である陸氏は呉の四姓の筆頭であり、揚州随一の名族ではあったが孫氏とは対立していた。袁術配下であった孫策が揚州に攻め寄せた廬江の戦いにおいて陸氏の多くが殺害され、陸遜が一門を率いることとなっている。 | ||
呉国太【R】 | R | 孫呉の良心【60-80%】 | 兵糧|兵糧 | 呉 | 30 | 呉国太は小説『三国志演義』に登場する架空の人物で孫堅の第二夫人。正夫人である呉夫人とは実の姉妹で一緒に孫堅へ嫁いでいる。妹の呉夫人が病気で早逝すると母親代わりとして孫権を育て、とても慕われていたという。 | ||
呉国太【SR】 | SR | 孫呉の国母【60-80%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 呉 | 40 | 孫堅の第二夫人。妹・呉夫人の忘れ形見である孫権の母親代りとして孫呉を支えた。赤壁の戦いでは降伏か抗戦かで国論は二分されたが、抗戦を唱える周瑜の意見を聞くよう助言する。後に周瑜と孫権が計った劉備暗殺の策を諌めるなど重要な役周りを演じている。 | ||
鮑三娘【R】 | R | 戦乙女の槍撃【44-60%】 | 内政なし | 蜀 | 30 | 『花関索伝』に登場する架空の人物。同書の主人公である関索の正妻として登場する。美しくまた武芸にも優れた女性で、自分より武芸に劣る男たちに目もくれなかったが、それを聞きつけた関索との勝負に敗れ、自ら求婚。関索の妻となっている。 | ||
蔡文姫【SR】 | SR | 悲憤詩【80%】 | アイテム|アイテム|アイテム | 漢 | 30 | 魏の女流詩人で蔡邕の娘。董卓の死後の混乱時に中原に侵入した匈奴に捕らわれ南匈奴の左賢王の妻にされたが、中原を征した曹操によって救出された。左賢王との間には二児をもうけたが生別した。彼女が記した「悲憤詩」には戦乱の悲しみと憂悶が表されている。 | ||
伏皇后【SR】 | SR | 漢王朝の結束【80-100%】 | 銭|銭|銭 | 漢 | 40 | 後漢最後の皇帝、献帝の皇后。董承らがクーデターを起こして失敗。曹操に処刑されたあとに、その残虐性に戦慄を覚えた伏皇后は父の伏完に暗殺を持ちかける手紙を書く。それが後に露見して曹操によって廃后され幽閉ののち死んでいる。 | ||
呂姫【R】 | R | 絢爛無双【40-65%】 | 内政なし | 漢 | 30 | 三国志史上最強の武将・呂布の娘。徐州を巡る袁術と劉備の争いの中、呂布を味方に付けたい袁術が自分の息子と呂布の娘との婚姻を持ちかけた記述が正史や小説『三国志演義』などに残っており、おそらくは実在の人物と思われる。 | ||
馬超【SSR】 | SSR | 驍勇無双【80-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀の武将。涼州を追われた後に馬超は幾度も失地回復を試みるが果たせず、益州攻略中の劉備に帰順した。その勇名を知っていた劉璋は馬超の参戦を恐れて程なく降伏したという。その後、一族唯一の生き残りの馬岱を劉備に託して病死している。 | ||
於夫羅【R】 | R | 尻尾ふり【100%】 | 銭 | 他 | 30 | 後漢時代の南匈奴の王。匈奴の王ながら数千騎とともに国を離れ漢に留まる。元は霊帝が漢の反乱に匈奴の兵を徴集しこれに従ったものだが、遠征中の翌年に故郷の南匈奴で政変が起きた。於夫羅は帰還を拒否されて王の地位を失ってしまった。 | ||
於夫羅【SR】 | SR | 尻尾ふりふり【100%】 | 銭|銭 | 他 | 40 | 後漢時代の南匈奴の元王。匈奴の王位を失い、漢に留まることになった於夫羅は数千の兵と共に中原を放浪し戦乱に介入した。袁紹に従って反董卓連合に加わって戦うが後に袁紹を裏切る。曹操とも戦い、これに大敗して後に曹操に恭順している。 | ||
左賢王【R】 | R | 狼の化身【100%】 | 兵糧 | 他 | 30 | 後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の王で於夫羅の子。南匈奴は西暦48年に匈奴から分かれた勢力で、南匈奴は中央の後漢に服属して長城の内側に住み、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦っている。左賢王は、後に漢化し劉姓を名乗っている。" | ||
左賢王【SR】 | SR | 人狼の呪縛【100%】 | 兵糧|兵糧 | 他 | 40 | 南匈奴の左賢王。中央で漢化した後に劉豹を名乗っている。曹操に服属し匈奴の領土の一部を統括した。董卓の残党による叛乱の際に蔡文姫をかどわかして側室としている。非常に長命で、前趙の祖・劉淵は嫡子とされている。 | ||
龐統【R】 | R | 連環の計【15-40%】 | 兵糧|アイテム|銭 | 他 | 30 | 字は士元、荊州襄陽郡の人。荊州の名士龐徳の従子。伏龍と呼ばれた諸葛亮に対して龐統は鳳雛と称せられた。人物鑑定で有名な司馬徽にその才能を評価された事でその名を知られるようになる。劉備が荊州を領有するとこれに仕えた。 | ||
龐統【SR】 | SR | 真・連環の計【25-70%】 | 兵糧|アイテム|銭|銭 | 蜀 | 40 | 劉備は龐統を地方の県令に任じたがそこで龐統は職務を滞らせている。これを聞いた魯粛は龐統の才能は大役を与えてこそ発揮されると言い、諸葛亮も強く推挙した。劉備はこれを聞き入れ、龐統を諸葛亮と同格の軍師中郎将へ昇進させている。 | ||
龐統【SSR】 | SSR | 極・連環の計【35-80%】 | 兵糧|兵糧|アイテム|銭|銭 | 蜀 | 50 | 劉備に仕え鳳雛と称せられた天才軍師。『三国志演義』では赤壁の戦いで周瑜に連環の計を進言し、呉を大勝利に導いている。その後、劉備の益州攻略に従軍するが、落鳳坡にて劉備の愛馬に乗っていた為に劉備と間違えられて伏兵に遭い射殺された。 | ||
花鬘【R】 | R | 虎吼の鼓舞【60-80%】 | 兵糧|兵糧 | 他 | 30 | 京劇『龍鳳巾』に登場する南蛮王・孟獲の娘。関索と恋に落ちる敵将の娘という役回りである。諸葛亮の南征中に蜀軍の関索と勝負して敗れる。その後関索は南蛮軍の捕虜となって花鬘と再会。二人は婚約を誓いあうのであった。 | ||
董白【SSR】 | SSR | 唯我独尊【90-100%】 | 兵糧|兵糧|銭|銭 | 漢 | 50 | 董卓の孫娘。絶大な権力を持つ祖父の寵愛を受け、贅を極めた生活を過ごしたため傲慢な性格となった。齢十五歳で領地と軍をも所有し、董卓が処刑されるまでの間、まさに「好き放題」に振る舞っていたとされる。 | ||
財宝輸送隊【R】 | R | 輸送疲労【100%】 | 内政なし | 漢 | 1 | 勅命によって貴重品を輸送するために編成された特別部隊。使命感は誰よりも高いが、宮廷での裕福な暮らしに慣れてしまっており体力に乏しい。長旅の経験も皆無のため同行する者の足を引っ張ってしまう。 | ||
火攻【SSR】 | SSR | 紅蓮の大渦【75%】 | 兵糧|兵糧|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 周瑜と諸葛亮の二人。敵対する間柄でありながら赤壁の戦いで共通の敵である魏に勝利するため手を組んだ。互いに魏を破る策を示すため、自らの手に記して見せ合った文字は図らずも「火」、つまり「火計」であった。 | ||
許褚【SSR】 | SSR | 虎士猛撃【90-100%】 | 兵糧|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 曹操の近衛兵である虎士の長で、武勇に優れていた。潼関の戦いでは本隊に奇襲をかけてきた馬超の軍勢を防ぎ、曹操を逃がすため鞍を左手に持って矢を防ぐ盾として使い、右手で船を漕いで難を逃れたという。潼関での武勲により武衛中郎将に任じられた。 | ||
張飛【SSR】 | SSR | 猛将の咆哮【90-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀の五虎大将軍。関羽と共に「萬人之敵」「三軍に冠たる勇」と称えられた武勇の士。劉備が帝位に就くと、蜀の車騎将軍・司隷校尉・西郷侯に任ぜられた。その際に劉備から、忠勇は周の名将・召虎に並ぶと高く評された。 | ||
魏延【SSR】 | SSR | 腰抜け野郎が!【100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 諸葛亮の死で北伐撤退が決まると、魏延は継戦を主張する。しかし周囲に容れられずに孤立、出奔して漢中へ逃げ落ちるが、馬岱に斬られた。陳寿は、魏延自身が諸葛亮に代わって指揮を取ろうとしただけで謀反を起こそうとしたのではないだろう、と評している。 | ||
馬雲騄【C】 | C | 特技なし | 内政なし | 蜀 | 10 | 『正史』とは別の作品に登場する架空の人物。作中では西涼の雄・馬騰の娘、また馬超の妹として描かれる。類まれなる美貌と武勇を併せ持ち、後に趙雲の妻となった。 | ||
[女雛]王桃【SR】 | SR | 恋はぎ【100%】 | 兵糧|防衛 | 蜀 | 40 | 説話『花関索伝』に登場する女武将。盗賊・王令公の娘。蘆塘塞で父に会う旅をしていた関索に敗れたが、関索に惚れ込み妹・王悦と共に関索の側室になった。 | ||
太史慈【SSR】 | SSR | 神弓閃耀【80-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 孫策・孫権の孫家二代に仕えた将。孫家に仕えてからは対劉表の最前線で戦い、度々功績を挙げた。曹操は太史慈の武勲を知り、薬草の当帰を添えて勧誘した。「当に帰るべし」我が方へ来いとの謎かけであったが、太史慈は無視して孫家への忠義を貫いた。 | ||
張遼【SSR】 | SSR | 遼来遼来【100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 魏の類まれなる武威を持つ武将で、魏の五将軍の筆頭格とされる。魏王となった曹丕から前将軍に任じられ、また曹丕が帝位に就くと晋陽侯に封ぜられた。呉への三路侵攻では病身ながら出陣し、孫権から「張遼、病むといえど当るべからず」と武威を恐れられた。 | ||
張玉蘭【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 他 | 10 | 中国後漢末期の「五斗米道」の指導者・張魯の姉妹。母である盧氏から巫術の才を受け継いでいたとされる。 | ||
黄忠【SSR】 | SSR | 老当益壮【50-80%】 | 防衛|防衛|防衛 | 蜀 | 50 | |||
張春華【SSR】 | SSR | 恐妻の激昂【80-100%】 | 防衛|防衛|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 三国志随一の鬼嫁。曹操に仕え出世する夫・司馬懿に側室・柏夫人ができてから寵愛は遠のいた。病に罹った司馬懿を見舞ったが罵倒されたので息子共々断食で死のうとして慌てた司馬懿に説得された。死後、息子・司馬昭から穆妃、孫の司馬炎から皇后を贈られた。 | ||
張春華【SR】 | SR | 恐妻の睥睨【60-80%】 | 防衛|防衛|防衛 | 魏 | 40 | 司馬懿の正室。古の恐妻。司馬懿が曹操への出仕を仮病で拒否していた時、虫干し中の書物をにわか雨から守る為に急いで取り込んだ所を侍女に見つかり、秘密が漏れる事を恐れた彼女は侍女を亡き者にした。以後、司馬懿は彼女に頭が上がらなかったという。 | ||
張春華【R】 | R | 恐妻の叱咤【40-60%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 30 | 河内郡平睾県の人。司馬懿の正室で、彼が立身する前からの妻。若い頃から道徳に適った行いをし、人並み以上の知識と徳を備えた女性だったとされる。司馬懿の子・司馬師、司馬昭、司馬幹、南陽公主を産んだ。 | ||
歩夫人【SSR】 | SSR | 豊穣の舞い【90%】 | 兵糧|兵糧|兵糧|兵糧 | 呉 | 50 | 孫権の妻の一人。生前は孫権の寵愛を受けたが臣下の反対で皇后にはなれなかった。しかし、宮中では歩夫人のことを皆が皇后と呼び彼女も変わらず孫権を支え続けた。死後に皇后を追贈された。この皇后不在の状況が「二宮の変」の遠因となっている。 | ||
歩夫人【SR】 | SR | 豊作の舞い【80%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 呉 | 40 | 孫権の妻の一人で、大虎・小虎の母。彼女は容貌が美しく後宮の他の女性たちに嫉妬せず、逆に後ろ盾になるなど性格的にも優れた女性だった。孫権は彼女の事を最も愛し皇后に望んだが臣下は皇太子・孫登の育ての親である徐夫人を推し皇后不在の状況が続いた | ||
尹氏【SR】 | SR | 自由奔放【80-100%】 | 銭|銭|銭 | 魏 | 40 | 曹操の側室。曹操との間には曹矩をもうけたが早世した。連れ子の何晏は曹操の娘・金郷公主と結婚していたが素行の悪さから曹丕に疎まれ、官職に就けたのは曹叡の時代になってからである。その後、曹爽に認められ共に栄華を謳歌していたが249年の司馬懿のクーデターで失脚し処刑された。 | ||
尹氏【R】 | R | 天真爛漫【60-80%】 | 銭|銭 | 魏 | 30 | 曹操の側室。曹操の側室になる前は後漢の大将軍・何進の子と結婚していた。前夫との子・何晏も曹操に引き取られ曹操の子と同じく養育された。何晏は同じく曹操の側室となった杜氏の連れ子・秦朗とその態度が対照的でよく比較されている。 | ||
于禁【SR】 | SR | 一挙両得【100%】 | 防衛|防衛 | 魏 | 40 | 魏建国の功臣。名将と称えられる功績を残しながら、樊城の戦いで関羽に降伏した事で過去の武勲・名声を全て失い汚名と屈辱に満ちた後半生を送った。関羽の死後、魏に身柄を帰されたが魏帝・曹丕は于禁が降伏する様を壁画にして揶揄し、それを見た于禁は精神的に止めを刺され病死した。 | ||
安らぎの花園【SR】 | SR | 暖かな抱擁【60-80%】 | 内政なし | 呉 | 40 | 呉夫人は孫堅の正室。孫尚香は孫堅の娘で、史書に記載はないが彼女の母は呉夫人ではなく呉国太というのが有力である。しかし呉夫人は孫尚香らを実子のごとく慈しみ、子供たちも彼女を実母のごとく慕ったという。 | ||
銅雀台【SSR】 | SSR | 魏公の威風【100%】 | アイテム|アイテム|防衛|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 魏の曹操が鄴の地に造営した宮殿。一説によると、曹操が袁紹との争いに勝利した後、鄴の民から地中に埋もれていた青銅の雀像を献上され、これを吉兆と喜んだ曹操が銅雀台と命名したという。曹植が宮殿の壮麗さを「銅雀台の賦」という詩に示している。 | ||
テンカロイド【C】 | C | 特技なし | 兵糧 | 神仙 | 10 | 突如大陸に現れた、みどり色の謎の物体。どこからか手に入れた冠をかぶり、軍師くんの真似をしているようだが…? | ||
軍師ロイド【R】 | R | みどりのめぐみ【60-80%】 | 兵糧|兵糧|アイテム | 神仙 | 30 | だんだん軍師っぽくなってきた謎の物体。なんだか軍師くんに似てきたような気もする。みどり色だったからか、農業手腕はなかなか侮れない。 | ||
二荀【SSR】 | SSR | 王佐の才【100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 左より荀彧、荀攸の二人。荀攸は荀彧の甥であるが、年齢は荀彧よりも上である。後漢末の動乱期、許に本拠を構えて以降曹操軍の筆頭参謀となって官渡の戦いを始め曹操に数々の献策を行い、その覇業に大いに貢献した。 | ||
[義将]関羽【C】 | C | 義士の一喝【20-30%】 | 銭 | 蜀 | 10 | 字は雲長、司隷・河東郡解の人。劉備が義勇兵を集めた際に、張飛らと共に馳せ参じた。張飛とともに劉備の警護を務め、各地で武勲を立てた。劉備も二人を信頼、同じ床(寝具)で寝るなど兄弟同然であった。小説『三国志演義』では義兄弟の誓いを立てている。 | ||
[義将]関羽【R】 | R | 義将の勇武【30-80%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 忠武を敵味方から賞された、三国時代有数の勇将。劉備が曹操から独立して徐州を制すると、劉備は関羽に下邳を守らせて太守の任務を代行させた。劉備が曹操に敗れると、下邳を守っていた関羽はやむなく降伏。曹操は関羽を偏将軍に任じて、篤く遇したという。 | ||
献帝【SSR】 | SSR | 漢帝の大号令【100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 漢 | 50 | 第14代漢皇帝であり最後の皇帝。聡明な人柄であったとされ、十常侍ら宦官と何進らの争いの混乱に乗じて朝廷の実権を握った董卓によって擁立された。その後、董卓が呂布に暗殺されてからも、様々な権力闘争に巻き込まれ波乱の人生を送る。 | ||
安らぎの花園【R】 | R | 暖かな風【40-60%】 | 内政なし | 呉 | 30 | 孫堅の娘で、孫策・孫権の妹。苛烈な性格で勇ましい逸話が多く残る彼女だが、その一面花を愛でる可憐な乙女でもあった。父と二人の兄の野望に力添えすべく、けなげな胸の内を秘めて天の時を待つ日々を送っている。 | ||
厳氏【R】 | R | 憂心の備え【30-40%】 | 内政なし | 漢 | 30 | 後漢末期随一の猛将・呂布の正妻。厳氏と呂布との間には娘が一人あり、暴虐と評された呂布も娘は溺愛したという。後に、皇帝を自称した袁術から彼の息子との婚姻話が持ち上がり厳氏は賛成したが、陳登・陳珪らの反対で話が流れている。 | ||
厳氏【SR】 | SR | 憂苦の癒し【40-60%】 | 内政なし | 漢 | 40 | 後漢末期随一の猛将・呂布の正妻。呂布が小沛の劉備を攻めたことがきっかけで、呂布の守る下邳に曹操軍が殺到する。呂布は自ら出陣しようとしたが、厳氏は参謀・陳宮と武将・高順の不仲を理由に反対。呂布は出陣を取りやめている。 | ||
厳氏【SSR】 | SSR | 憂懼の奏送【60-80%】 | 内政なし | 漢 | 50 | 後漢末期随一の猛将・呂布の正妻。小説『三国志演義』では陳宮の策で出陣しようとする夫・呂布を泣いて引き止めており、情勢を理解しない蒙昧な女性として描かれている。夫・呂布の処刑後、彼女と家族は許昌へと送られたがその後の消息は伝わっていない。 | ||
郭皇后【R】 | R | 女王の才分【60-80%】 | 銭|防衛 | 魏 | 30 | 名は不詳。字は女王、冀州安平郡広宗県の人。後漢の南郡太守郭永の娘。郭永は彼女の才を高く評価し、女王の字を付けたという。その後、父母を亡くしたため銅鞮侯の召使いに身を落としていた。魏公に昇った曹操に才を見出されて、曹丕付きの女官となる。 | ||
郭皇后【SR】 | SR | 女王の才覚【80-100%】 | 銭|防衛|防衛 | 魏 | 40 | 魏の初代皇帝・曹丕の正室。才女の誉れ高い彼女は、曹丕に対してよく助言を述べたという。皇后であった甄姫の死後、曹丕から後継の皇后に指名される。臣下らは彼女が召使いまで落ちぶれたことを理由に反対するが、曹丕はそれらを意に介さず皇后に立てている。 | ||
郭皇后【SSR】 | SSR | 女王の才略【90-100%】 | 銭|防衛|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 魏の初代皇帝・曹丕の正室。曹丕の死後は曹丕の子・曹叡から皇太后の位を贈られた。「魏略」「漢晋春秋」などによれば嫉妬から曹丕の側室である甄姫を曹丕に讒言、死に追いやったという。甄姫の子である曹叡はこれを知って怒り、彼女に死を賜ったとされる。 | ||
戯志才【R】 | R | 逆撃の指揮【100%】 | 銭|防衛 | 魏 | 30 | 豫州潁川郡の出身。世俗の人々との交流を嫌い、故郷で隠棲していた。曹操が献帝を迎えた際に、同じ潁川郡出身である荀彧から策謀の士として推挙され、その配下となった。曹操からその才覚を認められて、参謀の一人として重用されている。 | ||
顧雍【R】 | R | 能吏の領知【60-80%】 | 兵糧|銭 | 呉 | 30 | 揚州呉郡呉県の人。呉の四姓に数えられる名家の出身。合肥県長など地方官を務めた後、孫権から会稽太守の代理に任じられた。統治に才があり、寡黙で酒を嗜まず実直な気質を称賛されている。小説『三国志演義』では張紘の推挙で孫権に出仕している。 | ||
陸遜【SR】 | SR | 孫呉の英才【80-90%】 | 兵糧|銭|防衛|防衛 | 呉 | 40 | 呉の初代丞相。孫策の跡を継いだ孫権は陸氏一族との関係改善を図った。孫氏は陸氏一族にとって仇敵だったが、陸遜は孫権の呼びかけに応じて出仕。山越討伐で功を挙げた陸遜は荊州攻めの大将に抜擢され、南郡・公安を急襲して降伏させるという大功を挙げた。 | ||
賈華【R】 | R | 伏勢襲撃【40-60%】 | 防衛 | 呉 | 30 | 小説『三国志演義』に登場する孫権配下の武将。劉備と孫権・呉国太が甘露寺で会見する際、孫権の内命を受けて劉備暗殺のため兵を伏せる。しかし呉国太が劉備のことを気に入り、暗殺は不発。賈華は呉国太の叱責を受けるが、劉備のとりなしで許されている。 | ||
徐氏【SSR】 | SSR | 導きの霊言【80-100%】 | 銭|銭|銭|防衛 | 呉 | 50 | 孫権の弟・孫翊の夫人。伯父・孫河の死で孫翊謀殺の犯人を確信した徐氏は復讐を決意。自らに言い寄ってきた爲覧に対してわざと媚を売って油断させると、孫翊の腹心であった孫高・傅嬰の力を借りて爲覧・戴員を誅殺。仇を討った徐氏は二人の首を墓前に供えた。 | ||
馬謖【SR】 | SR | 絶地布陣【85-100%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 40 | 蜀の武将。北伐以前には綿竹や蜀の首都である成都で県令を務め、その後越嶲太守に任じられる。史書によれば「才器人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と高く評されていた。南征では参軍に任じられて、しばしば諸葛亮と談論して才の一端を示したという。 | ||
馬謖【SSR】 | SSR | 死地布陣【100%】 | 銭|銭|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀の武将。北伐では街亭の守りを命ぜられるが、諸葛亮の指示に背いて要道を捨てて山頂に布陣、大敗を招く。諸葛亮は敗戦の責任を厳しく問い、涙ながらに馬謖を処刑した。これが「泣いて馬謖を斬る」故事である。ただ「敗戦後の獄中で死去」という異説もある。 | ||
王桃【R】 | R | 女盗賊の視線【40-60%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 30 | 明時代の説話『花関索伝』に登場する架空の人物。王令公という盗賊の娘で、女ながらに盗賊の首領を張っていた。父を捜して益州に向かう途中だった関索と出会い、王桃は勝負を挑むが打ち負かされる。その強さに惚れ込み、妹・王悦ともども関索の側室となる。 | ||
王悦【R】 | R | 不意打ち上等【65-85%】 | 銭|防衛 | 蜀 | 30 | 明時代の説話『花関索伝』に登場する架空の人物。王令公という盗賊の娘で、姉・王桃とともに盗賊として悪事を働いていた。姉ともども関索に打ち負かされて改心。二人して関索の妻になろうとするも、すでに正妻の鮑三娘が居たために側室になった。 | ||
丁原【R】 | R | 疾風の進軍【65-85%】 | 防衛 | 漢 | 30 | 何進が宦官排斥の為に洛陽に集結させた群雄の一人。その際、何進から執金吾に任じられている。少帝・劉弁を廃しようとする董卓に毅然と反対した。しかし養子の呂布が董卓に懐柔され、丁原は呂布に殺害された。その後丁原の軍は董卓軍に吸収されている。 | ||
張玉蘭【SR】 | SR | 五斗寄進【40-60%】 | 兵糧|兵糧|兵糧 | 他 | 40 | 道教教団・五斗米道の教主である張衡の娘、張魯の姉妹。天からの赤い光により未婚のまま子を宿したが、父母からは不義を疑われて厳しく咎められた。絶望した張玉蘭は、侍女に「私の心は腹中にあり」と遺言を残すと自ら命を絶ったという。 | ||
袁紹【SSR】 | SSR | 王者の風格【90-100%】 | 兵糧|銭|銭|防衛 | 袁 | 50 | 河北四州を制した群雄。反董卓連合の解散後は冀州に拠り、公孫瓚を滅ぼして大勢力を築いていた。曹操も彼の力を恐れ、献帝から任ぜられた大将軍の位を袁紹に譲っている。呂布滅亡後に曹操と対立、官渡・倉亭での敗戦後もなお勢力を保ってテンカを睨んでいた。 | ||
程昱【SR】 | SR | 日輪の天啓【100%】 | アイテム|アイテム|防衛 | 魏 | 40 | 曹操に仕えた軍師。程昱と荀攸のすすめで曹操が謀った十面埋伏の計で袁紹は敗れ、必死の逃亡の果てに吐血して死亡した。劉備は荊州の劉表を頼り落ち延び、曹操はその後、華北統一への道を突き進むこととなる。のちに魏皇帝となった曹丕は程昱の死に涙を流し、車騎将軍を追贈している。 | ||
呉夫人【SR】 | SR | 東呉の賢母【60-80%】 | 銭|銭|銭 | 呉 | 40 | 孫堅の正室。孫策・孫権らの母親。呉の国母ともいえる賢婦人。孫堅の死後、子の孫策が呉を治めた。その性急なやり方を懸念して呉夫人はたびたび孫策を諌めたがその助言は常に的確なものであった。後の孫権にも献策を授け、孫権と臣下の関係構築にも心を砕いていた。 | ||
関姫【SR】 | SR | 武神姫の怒り【80-100%】 | 兵糧 | 蜀 | 40 | 関羽の三番目の娘。荊州で関羽が呂蒙と陸遜に敗れ処刑されると、関姫は復讐を誓い成都まで落ち延びた。その後、諸葛亮自らが仲人となって李恢の子である李蔚に嫁いでいる。真偽は不明ではあるが現在の俞元村には李蔚と関姫が合葬された墓が今でも残っている。 | ||
董卓【SSR】 | SSR | 董卓の悪食【80-100%】 | 兵糧|アイテム|アイテム|アイテム|銭 | 漢 | 50 | 群雄割拠の時代を招いた梟雄。一時は宮廷で権勢をほしいままにしたがそれは当然ながら諸侯や他の朝臣らの反感を買った。小説『三国志演義』では王允の放った絶世の美女、貂蝉に美女連環の計を謀られ、最期は養子の呂布の裏切りにあって謀殺された。 | ||
呉の大都督【SSR】 | SSR | 江上の轟炎【90-100%】 | 銭|防衛|防衛|防衛 | 呉 | 50 | 呉で都督に任じられた武将は他にも存在する。しかし、前部大督(前線司令)に任じられて赤壁で大勝した周瑜・周瑜の遺命で軍勢を受け継いだ魯粛・荊南を奇襲して関羽に勝利した呂蒙・夷陵の戦いを前に大都督に任ぜられた陸遜の四人の名が特に知られている。 | ||
徐夫人【R】 | R | 紅色の微笑み【20-30%】 | アイテム|アイテム|銭 | 呉 | 30 | 呉郡の有力豪族・徐琨(じょこん)の娘。夫に先立たれたために故郷である呉郡に戻っていたが、兄・孫策の覇業を継いだころの孫権に見出されて彼の妻となった。孫権の長男・孫登(そんとう)の生母が身分の低い女性であったため、彼女が養母として孫登を育てたという。 | ||
徐夫人【SR】 | SR | 真紅の錬成【40-50%】 | アイテム|アイテム|銭|銭 | 呉 | 40 | 孫権の夫人の一人。妬心激しい性格ゆえに、孫権が呉郡から本拠を移した際に離縁された。彼女はその後も呉郡に住み続けたという。ただ、養子の孫登(そんとう)や群臣からは敬愛されており、孫権が皇帝になった際には彼女を皇后位に就けるよう進言されていることから、彼女の嫉妬は孫権の側に問題があったとも言える。 | ||
黄月英【R】 | R | 発明大好き【20-30%】 | アイテム|アイテム|アイテム | 蜀 | 30 | 襄陽に住む名士・黄承彦(こうしょうげん)の娘。母は荊州の有力豪族・蔡瑁(さいぼう)の長姉。蔡瑁の次姉は荊州刺史・劉表(りゅうひょう)の後妻となったため、劉表・蔡瑁の姪にあたる。古今の学問に通じた才女だが『黄頭黒色』…髪が黄色く肌も浅黒いために醜いという噂が流されてしまい、黄承彦は嫁ぎ先を探して苦労していたという。 | ||
黄月英【SR】 | SR | 機工上手【40-50%】 | アイテム|アイテム|アイテム|アイテム | 蜀 | 40 | 黄承彦(こうしょうげん)の娘。隆中に住む若き臥龍・諸葛亮の存在を知った黄承彦は、彼に「君は嫁を迎える気はないか? 私の娘は容姿はともかく才知は君に似合っている」と婚姻を勧めた。常々、大事なのは徳と才であり美貌など二の次と考えていた諸葛亮はこの話を承諾。隆中の民は「莫作孔明擇婦、正得阿承醜女(孔明の嫁取りを真似るな、黄承彦の醜い娘を貰う羽目になるぞ)」と噂した。 | ||
黄月英【SSR】 | SSR | 失われし叡智【60-80%】 | アイテム|アイテム|アイテム|アイテム|アイテム | 蜀 | 50 | 蜀漢丞相・諸葛亮の妻。主君・劉備の理想を実現しようとする夫を影日向に支えた。諸葛亮が北伐の際に使用した輸送車輌「木牛」「流馬」は彼女が設計したという説がある。また民間伝承によれば、麺打ち用のからくり人形や防犯用のからくり犬を造って自在に動かしていたともいう。 | ||
馬姫【R】 | R | 後の先の構え【60-80%】 | 内政なし | 蜀 | 30 | 蜀漢の五虎大将軍の一人、左将軍馬超の娘。錦馬超と呼ばれた父の武勇と美貌とを色濃く受け継いでおり、自慢の娘であった。父譲りの巧みな馬術と必中の弓術とで、数多の戦場を駆け抜けていった。 | ||
馬姫【SR】 | SR | 後の先の受け【70-90%】 | 防衛 | 蜀 | 40 | 蜀漢の五虎大将軍の一人、左将軍馬超の娘。父である馬超を心から慕う彼女は、彼の早逝に衝撃を受ける。虚無のごとき悲しみから逃れるために、彼女は主君・劉備と共に孫権討伐の戦いへと赴く。 | ||
馬姫【SSR】 | SSR | 後の先の流し【80-100%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 50 | 蜀漢の五虎大将軍の一人、左将軍馬超の娘。夷陵の戦いから九死に一生を得た彼女は、父の死という悪夢から目覚める。二代目皇帝・劉禅の弟である劉理に嫁いだ彼女だが、夫を守るため、父の眠る蜀漢の地を守るため、再び弓矢を取る。 | ||
鯉幟護衛隊【R】 | R | 輸送疲労【100%】 | 内政なし | 蜀 | 1 | 端午節に必要なこいのぼりを輸送するために編成された特別部隊。護衛隊と名前は勇ましいものの、長旅のためか同行者の足を引っ張ることもしばしば。戦いの役にもあまり立っていない様子。 | ||
[端午]劉禅【SR】 | SR | 鯉のたきのぼり!【60-100%】 | 兵糧|兵糧|銭 | 蜀 | 40 | 蜀漢の第二代皇帝。「三国志演義」では蜀を滅亡させた無能な皇帝との烙印を押されているが、正史における劉禅は41年に及ぶ即位の間、大過なく国家を運営していたことが記されている。その間、魏・呉では皇帝の弑殺・謀殺が繰り返されていたことを考えると、凡庸ながら優れた君主との評もある。魏への降伏も、国家が衰退していく中で、これ以上の流血を避けるための英断であったと賞する声も少なくない。 | ||
馬雲騄【SR】 | SR | 豪槍乱撃【90-100%】 | 内政なし | 蜀 | 40 | 西涼の雄・馬騰の娘であり、馬超の妹。「正史」には登場しない架空の人物とされている。小説「反三国志」においては兄・馬超の旗揚げに従い各地を転戦する。馬超が劉備に帰順すると、兄と共に益州攻略に参陣。その際に敵将を追う劉備麾下の趙雲と出会い、彼の雄姿に心を奪われる。 | ||
[義将]関羽【SR】 | SR | 義公の令名【80-90%】 | 兵糧|銭|防衛 | 蜀 | 40 | 忠武を敵味方から賞された、三国時代有数の勇将。曹操の下にいた関羽は、白馬の陣を攻撃する袁紹軍の猛将・顔良を奇襲して見事討ち取る大功を挙げる。その後関羽は主君・劉備の消息を知ると、曹操からの恩賞に封をして返すと彼の元へと去っていった。 | ||
張任【SR】 | SR | 忠将の神速【80-100%】 | 防衛|防衛|防衛 | 漢 | 40 | 劉璋配下の宿将。小説「三国志演義」においても、忠義に篤い良将として描かれている。劉備を漢中の五斗米道に対峙させる張松(ちょうしょう)の策に疑念を抱き、宴席では劉備麾下・魏延の態度を危ぶみ剣舞の相手を務めて劉璋の身を守った。また落鳳坡の地で龐統を斃したのも彼の手勢であり、劉備にとっては痛恨の敗戦となった。 | ||
曹昂【R】 | R | 死地の活路【60-80%】 | 兵糧|防衛 | 魏 | 30 | 字は子脩、曹操の長男。曹操の子で、母は劉夫人だが、早逝したため丁夫人に実子同様に養育された。20歳のころに孝廉に推挙されており、父・曹操からの期待も大きかった。曹操ほどの大器英才の持ち主ではなかったようだが、父と養母に忠孝を尽くした温厚篤実な人物であった。 | ||
曹丕【R】 | R | 魏の太子【25-35%】 | アイテム|銭|防衛 | 魏 | 30 | 魏の初代皇帝。曹操の子で、母は卞夫人。当初は庶子の一人として扱われていた。丁夫人の子で自身の兄である曹昂(そうこう)・曹鑠(そうしゃく)の早逝と、丁夫人の離縁によって卞夫人が正室となったため、嫡子として扱われるようになる。騎射・剣術が得意な文武両道の将として活躍、曹操から太子に立てられて後継者の地位を得る。 | ||
曹丕【SR】 | SR | 二代目魏王【35-50%】 | アイテム|銭|銭|防衛 | 魏 | 40 | 魏の初代皇帝。曹操が逝去すると魏王位を継ぐ。曹操の葬儀の際、司馬懿の弟・司馬孚(しばふ)から「テンカの規範となるべき人物が、庶民のように大泣きするな」と注意されている。「三国志演義」では後継の座を弟・曹植と激しく争ったとされるが、史書には残されていない。 | ||
辛憲英【R】 | R | 才女の看破【60-80%】 | アイテム|銭 | 魏 | 30 | 魏に仕えた辛毗(しんぴ)の娘で、洞察力に優れており聡明さを高く評されていた。曹丕(そうひ)が魏の太子に立てられると、曹丕は辛毗に対して大いに喜んでみせた。この話を父から聞かされた彼女は「太子は今後、魏王に代わって内は宗廟を護り、外に大敵と対して憂慮せねばならぬ立場。なのに無邪気に喜ぶとは、これで魏は栄えていけるのですか」と辛辣に評したという。 | ||
周姫【R】 | R | 父譲りの采配【40-60%】 | 兵糧|銭 | 呉 | 30 | 呉の初代大都督・周瑜の娘。母は小喬(ただし、正史には母の名は記されていない)。「美周郎」と謳われた父と、「月も光を消し花も恥らう江東の二喬」と称された母を持つ、麗しの美少女である。 | ||
周姫【SR】 | SR | 周姫の采配【60-80%】 | 兵糧|銭|防衛 | 呉 | 40 | 呉の初代大都督・周瑜の娘。父母から美貌と英才とを受けついだ彼女は、孫権の長男・孫登(そんとう)に嫁いだ。孫登は母の身分が低かったが自身の聡明さにより、孫権が呉王に就くと太子として立てられていた。孫登が彼女を妻に迎えたのは西暦225(黄武4)年であったと史書に残っている。 | ||
甘夫人【SSR】 | SSR | 慈母の微笑【80-100%】 | 兵糧|兵糧|兵糧|防衛 | 蜀 | 50 | 劉備の側室。劉禅の母。正妻である麋夫人とも仲が良く、二人で夫・劉備を支えた。赤壁の戦いのすぐ後に公安の地で病死した。劉備の死後、諸葛亮らは甘夫人に昭烈皇后の諡を奉り、劉備と共に成都・恵陵に合葬したという。 | ||
徐庶【SSR】 | SSR | 灼紅の極火計【100%】 | 兵糧|銭|防衛|防衛 | 魏 | 50 | 魏では右中郎将・御史中丞に任ぜられている。御史台の長として監察弾劾を司る要職ではあるが、諸葛亮の目からは彼の大才に比して役不足に映ったようで「魏にはそれほど人物が多いのだろうか」と嘆いている。あるいは「三国志演義」に描かれたように、旧主・劉備のため敢えて栄達しなかったのかも知れない。 | ||
穆皇后【R】 | R | 京師の憐花【40-50%】 | 兵糧|銭 | 蜀 | 30 | 呉懿(ごい)の妹。ある時、占師から「高貴な身分になる」と告げられたことがある。益州牧・劉焉(りゅうえん)はこの話を聞いて、三男・劉瑁(りゅうぼう)の嫁に迎え入れたが、劉瑁が早逝したため彼女は若くして未亡人となってしまう。兄からはたびたび再婚を勧められているが、彼女はわずかに微笑むのみであった。 | ||
劉封【R】 | R | 奇襲の対応【100%】 | 兵糧|防衛 | 蜀 | 30 | 劉備の養子。武芸に優れており、劉備の入蜀にも従って一部隊の将として武功を重ねている。正史では実子・劉禅が産まれる以前に養子として迎え入れているが、小説「三国志演義」では劉禅の誕生後に劉備が劉封の若武者ぶりを気に入って養子としている。 | ||
陳宮【SSR】 | SSR | 名参謀の達見【100%】 | 兵糧|銭|防衛|防衛 | 漢 | 50 | 呂布麾下の参謀。「三国志演義」では呂布と運命を共にした忠義の士として描かれているが、正史の注によれば呂布に対する郝萌(かくぼう)の反乱を裏で操っていた件や、高順(こうじゅん)とは著しく不仲であったことなど、単なる義士とは呼び難い面もあったようだ。しかし敗戦に及んで、母や妻子について問う曹操の言葉を拒んで呂布に殉じたことは正史にも記されている。 | ||
趙娥【R】 | R | 冥姫匕首【5-10%】 | 内政なし | 他 | 30 | 趙安(ちょうあん)の娘、龐淯(ほういく)の母。烈女として名が残る人物。父を李寿(りじゅ)という人物に殺され、姉弟全員で復讐を誓うものの弟たちはみな病死してしまう。李寿は仇持ちが女子一人になったと安堵するが、彼女は自ら刀剣を買い求めると毎夜その刀剣を研いで復讐の機会を待った。 | ||
タワー住人【R】 | R | テンション好調【30~80%】 | 銭|アイテム | 劇 | 30 | ならずものの街「クレイジータウン」に立つ巨大ビル「クレイジータワー」の住民たち。ひと癖もふた癖もある住民たちも、タワーと自分たちが置かれた状況に困惑気味の様子。 ・出演作品 クレイジータワー ※クレイジータワー本編の世界観とは異なります。 | ||
キャシー【R】 | R | 逆ギレ【 80%】 | 銭| 銭 | 劇 | 30 | 本名はキャシー・クレイジー。ならずものの街「クレイジータウン」に立つ「クレイジータワー」の管理人。物憂げな瞳と分厚い唇がセクシーな金髪美女。オーナーと二人でタワーの再建に東奔西走していたが...。 ・出演作品 クレイジータワー ※クレイジータワー本編の世界観とは異なります。 | ||
真田幸村【R】 | R | 日ノ本一の兵【 1~10%】 | 兵糧|防衛 | 劇 | 30 | 信濃の小大名・真田昌幸の次男。幸村は通称であり本名は信繁。類まれな武勇と父譲りの謀略とを兼ね備えた名将。伝統の赤備えに身を包み、強大な敵に挑む万夫不当の兵(つわもの)。 ・出演作品 戦国テンカトリガー ※戦国テンカトリガー本編の世界観とは異なります。 | ||
雷銅【R】 | R | 雷鳴鎚【 40~50%】 | 防衛|防衛 | 蜀 | 30 | 『三国志演義』では劉璋配下として雒城を守る。張任の命令で城から出陣し善戦するが劉備軍に包囲され降伏した。劉備に仕えてからは漢中で張飛に従い巴西を守る。攻め寄せる張郃を伏兵で撃退し追撃するが、退路に伏兵を配置され張郃に討ち取られた。 |
コメント(0)
コメント
削除すると元に戻すことは出来ません。
よろしいですか?
今後表示しない